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  • 04/14/2007 (7:33 am)

    プロ野球の経済学V(前編):裏を表にするには・・・

    Filed under: economics, sports ::

    世上、裏金問題が騒ぎとなっていますが。

    329: 名無しさんの冒険  2007/04/13(Fri) 15:19

    (略)

    プロ野球の裏金問題に個人的に興味があります。契約金の上限をオーナー会議で決めたにも関わらず、裏をかいて裏金を作ってまで学生にお金を渡して、選手獲得に励もうとしている球団があります。

    1. 契約金の上限をオーナー会で決める事で、選手の厚生的損得、チームの利益面での損得を経済学的に分析してください。

    2. 裏金を払ってでも有力選手を囲い込もうとするチームが、それを合理的と考える理由を経済学的に説明してください。

    3. 裏金問題をなくすためには、どのような賞罰設計をすればよいのか経済学的視点から制度設計を試みてください。

    4. そのような制度がオーナー会で採択されるのか、されないのかについて論ぜよ

    5. 今回の裏金騒動であなたが「おかしい」と感じた言論を列挙し、その理由を述べよ

    こんな感じでどうでしょ。学生さんの練習問題に使えるかもよ。

    いちごびびえす経済/経済学板「プロ野球の経済学」スレ・レス329

    というわけで、以下webmasterなりの考えを。

    Q1 契約金の上限をオーナー会で決める事で、選手の厚生的損得、チームの利益面での損得を経済学的に分析してください。

    オーナー会議で契約金の上限を定めるとは、カルテルの締結ということになります。すなわち、選手という労働力の買い手である各球団が連携して、あたかも独占企業であるかのように振舞うことにより、価格を引き下げているわけです。

    もともとドラフト制度自体が、独禁法上どうかという法律問題は脇に置くとしても、経済学的に見れば買い手によるカルテルだったわけです。すなわち、ドラフトで指名されれば、選手は指名した球団としか交渉できない(それ以外の球団には入団できない=それ以外の買い手を選べない)ので、その段階で買い手独占が成立し、選手側は他球団と競合させることによる価格の引上げができなくなり、その分だけ価格が抑えられていたわけです。

    名称は自由枠や希望枠など時代により異なりますが、いわゆる逆指名(ドラフト会議前に選手側から球団を指名すること)は、ドラフト会議に先立って逆指名を獲得するための複数球団の競合を可能にするわけですから、つまりはドラフトによる買い手独占を破る効果がありました。ドラフト前には市場における自由競争状態が実現するので、それがなく買い手独占が維持されている状態に比べれば価格を上昇させることになります。

    契約金の上限カルテルは、この価格上昇を抑制するものです。言い換えれば、いわゆる逆指名によりいったんは崩壊したドラフトという買い手カルテルの実効性を回復させる意図を有するものだと言えるでしょう。したがって、「選手の厚生的損得、チームの利益面での損得」としては、

    選手の厚生的損得

    本来自らの能力の対価として得られてしかるべき価格(球団にとってのその選手を獲得することによる限界収入)以下の価格しか得られず、損をしている。

    チームの利益面での損得

    選手を獲得することによる限界収入以下の価格で選手を獲得することができるので、差分が超過利潤となり、得をしている。

    ということになります。

    Q2 裏金を払ってでも有力選手を囲い込もうとするチームが、それを合理的と考える理由を経済学的に説明してください。

    第1問の裏返しとなります。つまり、本来球団は選手を獲得することによる限界収入を支払ってもペイするわけですが、それを買い手カルテルの締結により引き下げているのですから、カルテルによる価格を上回る費用を支出しても、それが限界収入に達するまでは、利益を確保することができるわけです。

    ある球団にとって、もっとも利益が大きいのは、他球団がカルテルを遵守する一方で、自分だけがカルテルを破ってカルテル価格よりほんのわずかに高い価格を提示し、それにより逆指名を得ることです。すなわち、

    自らがカルテルに参加してい(て逆指名が得られず、抽選にな)る場合の事前の期待便益

    =(限界収入−カルテル価格)×抽選により獲得できる確率(=1/競合球団数)

    自らのみがカルテルを破(り、逆指名が得られ)る場合の事前の期待便益

    =限界収入−カルテル価格+α)(4/18訂正)

    ということになります(同一の収入に対しては、球団の違いに関わらず同一の便益が生じるものと仮定)。

    ご覧のとおり、競合球団数の増加により期待便益は1/2、1/3・・・と急速に減少していきますから、相当程度高い水準のαを支払っても割に合うことになります。これが、「裏金を払ってでも有力選手を囲い込もうとするチームが、それを合理的と考える理由」です。限界収入=限界費用が均衡価格となりますから、つまりはα=限界収入−カルテル価格となるまでは、α=裏金を支払った方が得になるのです。例えば限界収入が5億円、カルテル価格が1億5,000万円であれば、3億5,000万円までなら裏金を支払っても割に合います。

    しかしながら、当たり前のことですが、ある球団がカルテル破りをしたというのに、他球団がそれを黙って見過ごすはずもありません。ある球団がカルテル破りをしたにもかかわらず、それを黙って見過ごす場合には、「自らがカルテルに参加してい(て逆指名が得られず、抽選にな)る場合の事前の期待便益」は、他球団が逆指名を獲得するわけですから「抽選により獲得できる確率」がゼロになるわけで、つまりは期待便益もまたゼロです。

    かくて買い手カルテルは崩壊し、裏金が横行するようになったのが現状、ということになるのです。

    (以下後編)

    03/30/2007 (11:50 pm)

    井手壮平「サラ金崩壊」

    Filed under: economy, economics, policymaking, book, politics ::

    サブタイトルに「グレーゾーン金利撤廃をめぐる300日戦争」とあるように、昨年の一連の消費者金融の上限金利規制を巡る騒動を記録したものです。この問題は当サイトでも長きに渡ってフォローしてきましたが、本書の記述が概ね正しいとの前提に立つと、webmasterの理解が誤っていたことがわかり、非常に重宝する記録であるといえましょう。ちなみにwebmasterの誤解とは、政治主導(与謝野大臣・後藤田政務官(いずれも当時))で決まった話で官僚はそのイニシアティヴに受動的に対応していたというもので、本書によれば、(少なくとも)大森信用制度参事官と森課長補佐の2名はきわめて能動的に上限金利引下げを図ったとのこと。

    その他、最高裁判決から法案の決定に至るまでの流れが要所を押さえつつまとめられており、資料的価値はなかなか高いといえるとwebmasterは思います。金融庁担当の記者(共同通信)という著者のグラウンドが影響してか、自民党と金融庁の動きに傾斜しがちで、それ以外の部分が若干手薄にも思われますが、結局のところは勝負はそこで決まり、その余の関係者(業界、日弁連など)の動きはそこへいかに影響を与えたかという形で評価されるべきものでしょうから、本書の価値を落とすものではありますまい。

    ないものねだりをするならば、上限金利規制というものの持つ意味を掘り下げて欲しかったとはいえますが、それは本書、さらには著者の任ではないのでしょう。つまりは本件についての経済学者の発言がもっとあってもよいのでは、ということですが、webmasterが知る限りでは、早稲田大学消費者金融サービス研究所でのもののほか、大竹文雄先生と池尾和人先生の論争、それに当サイトにもコメントをお寄せいただいた吉行誠さんの一連の記事(ちょうどこの3者が大竹先生のエントリのコメント欄で相まみえていますので、概観はそちらをご覧いただければ)ぐらいしかめぼしいものはありませんでした。

    ことはごりごりのミクロ経済問題であり、しかも影響を受ける者の数は多めに見積もれば1,000万人を超える本件について、できれば政策立案過程においての経済学的な議論があればとは思いましたが、過去にとらわれていてもいたし方ありません。せめて今からでも、あるべき消費者金融規制とはどのようなものかを論じることに、経済学者の存在意義のひとつがあるのではないでしょうか。

    03/25/2007 (1:52 am)

    「追い貸しがTFPを上昇させた」仮説

    Filed under: economy, economics ::

    きっかけは、次の書き込みでした。

    689: 名無しさんの冒険  2007/03/21(Wed) 23:54

    追い貸しは不況の主因じゃないという人は追い貸しの悪影響はほぼないと思ってるの? http://www5.cao.go.jp/keizai3/discussion-paper/dp062.pdf この人は外部効果で最大30%生産性が下がったといってるけど、追い貸しの影響は小さいという人は論破してみてよ。 林本ほど難しくないから簡単に出来るよね?

    いちごびびえす・経済/経済学板「トンデモ経済学家元追求委員会vol.8」スレ・レス689

    この三平剛「追い貸しの外部不経済効果について」を読んでいるうち、よく言えばセンスオブワンダー、悪く言えば一発芸的な標記仮説が思い浮かびましたので、書いてみたいと思います。内容についてのきちんとした検討ではないので、そのあたりについては、「日本発展のカギは全要素生産性の成長をいかに加速させるか」RIETI政策シンポジウム「全要素生産性向上の源泉と日本の潜在成長率−国際比較の視点から−」をご覧いただくことをお薦めいたします。

    三平論文における「追い貸しの外部不経済効果」その1‐定性的分析

    三平論文においては、追い貸し(その定義が妥当であるかどうかは、本稿では論じません)が外部不経済効果をもたらすパスとして、以下の3つが掲げられています(pp6,7(紙原稿として振られているページ数です。以下同じ)。

    1. 追い貸し先への貸出しシェアの高止まりによる健全先向け貸出しのクラウディングアウト(ただし、資金需要の低迷等から、健全先は資金供給を受ける代替手段があったと考えられることから、著者はこのパスの影響については消極的に解しています)
    2. 追い貸し先への金利減免等による競争優位獲得・健全先等の活動意欲阻害
    3. 追い貸し先の突然死リスクを警戒した結果としての取引関係の縮小(デット・ディスオーガナイゼイション効果)

    三平論文における「追い貸しの外部不経済効果」その2‐定量的分析

    以上の仮説を前提に、三平論文においては、次のような形で分析が進められています。

    そこで、本論文では、三平(2005)の分析を延長し、追い貸しが外部効果を有していた可能性も考慮して、追い貸しの影響を分析する。具体的には、企業のミクロ・データを用いた回帰分析により、企業の生産性や収益率が、自らが追い貸しを受けているかどうかだけでなく、他の追い貸し企業の存在によっても影響を受けていたかどうかを検証する。追い貸し企業の存在による外部効果を捉える変数としては、当該企業の属する産業における追い貸し企業の割合と、取引先産業における追い貸し企業の割合を用いる。これにより、同一産業内や取引先に追い貸し企業が増加した場合に企業の生産性や収益率に与える影響を検証できる。

    三平剛「追い貸しの外部不経済効果について」, p5

    このような分析により追い貸し企業の割合が高い方が生産性が低い等の結果が導き出せたことから、次のような結論にいたっています。

    本稿では、追い貸しが経済に与えた影響について、追い貸しによって非効率な企業が延命することによる直接効果だけでなく、追い貸しが他の健全企業の生産性等にまで影響を与えるといった外部効果も考慮に入れて分析を行った。その結果、同一産業内や取引先産業内に追い貸し企業が増加すると、企業の生産性や収益率に影響を与えるという外部効果が存在することが明らかとなった。

    こうした外部効果も含めて経済への影響を推定すると、直接効果のみを考慮した場合と比べ、影響は大きかったと考えられる。実際、外部効果も含めて最大限見積もった場合には、追い貸しは経済の生産性(TFP)の水準をおよそ30%低下させていた可能性がある。また、直接効果だけでは追い貸しの影響が確認できなかった生産性上昇率についても、外部効果を考慮すると、最大で1.1〜1.7%程度、生産性上昇率を低下させていた可能性があることが示された。

    これらの結果から、追い貸しは90 年代以降の日本経済を停滞させる大きな要因の1つであったと言えよう。そうした追い貸しも、大手金融機関の相次ぐ破綻や金融再生法の成立を受けて金融機関が不良債権処理に本格的に取り組むようになった98年頃を境に見られなくなり、現状では不良債権処理もようやく出口を迎えつつあることから、日本経済は、バブル崩壊後10 年以上にわたる不良債権の重石からようやく解放されつつあると考えられる。

    三平剛「追い貸しの外部不経済効果について」, p20

    「追い貸し」のない世界のシミュレーション

    では追い貸しがなければ生産性等は下がらなかったのでしょうか。著者はそのようにお考えに見受けられますが、実際に追い貸しがなければどうなるかを考えると、そうは問屋が卸さないような気がwebmasterにはするのです。

    追い貸しがなければ、現実には追い貸しを受けていた企業は「倒産」するのでしょう。ただ、単に「倒産」といっても、そのあり方は様々です。といってもまったくのカオスというわけではなく、次のように大別可能とされています。

    清算型倒産手続
    「倒産」した企業を資産売却等により現金化し、その現金を配当として債権者等に支払って企業そのものはなくしてしまうもの。破産や特別清算など。
    再建型倒産手続
    債権放棄等により損失を債権者等の間で分かち合い、「倒産」した企業の事業内容を見直した上で、一定期間をかけて企業を再建していくもの。会社更生や民事再生など。

    #これらは法律上の定めのある手続ですが、関係者間の合意に基づき進められる(=法律上の根拠を持たない)任意整理については、いずれのパターンもあり得ます。一般的な傾向としては、任意整理の多くは清算型であると言われています。

    さて、先に整理した定性的分析に照らして、追い貸しを受けられずに上記のいずれかの手続による「倒産」にいたった場合の影響を考えてみましょう。クラウディングアウト効果は、著者が書かれているのと同様の理解からwebmasterもほぼ存在しなかったろうと見ていますから、そこは割愛します。

    競争阻害効果

    追い貸し先が「倒産」した場合、それが再建型手続によるものであれば、競争阻害の原因となる追い貸し先が獲得する優位性は、より大きなものとなります。一般に債権者(多くの場合において銀行)が「倒産」を避けて追い貸し(下における金利減免や一部債権放棄)を好むのは、「倒産」の場合にはより貸倒損失が増えるからですが、これは債務者の側から見れば、返済義務がより小さなものになる、ということに他なりません。

    清算型である場合には、追い貸し先はなくなってしまうわけですから、このようなことは起こりづらいとはいえましょう。

    デット・ディスオーガナイゼイション効果
    本効果は存在したとの前提で議論をするならば、追い貸しがある場合に比べてない場合の方が「倒産」の危険を察知しやすいということでない限り、追い貸しがあるからデット・ディスオーガナイゼイション効果が働くということにはなりません。デット・ディスオーガナイゼイションの場合、対金融機関よりも対取引先に主たる着眼点がありますが、取引先からすれば、経営悪化から「倒産」へ直接移行するより、追い貸し段階を経ている方がいわば「黄信号」を見ることができるので、かえって追い貸しがない方が「倒産」の危険を察知しづらく、本効果はむしろ強くなるようにwebmasterには思われるのですが。

    「追い貸しがTFPを上昇させた」仮説の論理

    というわけですので、現に追い貸しを受けていた企業が、仮に追い貸しがなかった場合に再建型倒産手続に移行するものが多いのであるならば、追い貸しの存在によりTFPは上昇していた(あるいはその減少は小さいものにとどまっていた)、ということが言えるでしょう。そこはきちんとしたミクロのデータで検証する必要がありますが、一般的な傾向として、次のようなことが言える蓋然性は高いでしょう。

    すなわち、今般の景気回復過程において追い貸しから「倒産」を経ずして立ち直った企業は、再建型手続により「倒産」に追い込まれずに済んだがゆえに外部不経済をもたらさずに済んだ、と。真に立ち直れないほどの経営悪化に直面した企業は、結局のところは追い貸しをもってしても復活させることはできず、清算型か再建型かは別にするとしても、「倒産」に追い込まれたものと推測するのは、あながち的外れというものでもないでしょう。

    あくまで外部不経済は再建型によるものに限られ、清算型が多かったのであればそのような悪影響はなかった、というのがここまでの前提です。三平論文の分析を受け入れるにせよ、ここまではその分析を延長することにより必然的にたどり着く帰結を論じてきました。これが間違っているとするには、三平論文の妥当性を否定するのが唯一のやり方となるはずです。

    では、清算型においては本当に悪影響は生じないのでしょうか? 一般に企業の継続価値に比べて清算価値は低くなりますが、その理由のひとつとして、これはその企業が存在してこそ価値が出てくる組織内のノウハウ等の存在が挙げられます。企業が存続すれば何がしかの価値をもたらすものであっても、清算してしまえば、それらは雲散霧消してしまわざるを得ません。この存在をも考慮に入れるのならば、

    • 追い貸しがなければ清算型手続で「倒産」していた企業数×換価不可能な企業特有の価値>追い貸しにより清算型手続による「倒産」の時期が遅れた企業数×当該遅れた期間の平均値×単位期間あたりの追い貸しによる延命の外部不経済効果

    という関係が成立するのであれば、やはり「追い貸しがTFPを上昇させた」ということが言えるはずでしょう。

    因果は巡る?

    三平論文の内容への理屈に基づく反論は以上ですが、そもそもの前提がおかしいのでは、という反射的な違和感が別にあります。三平論文は回帰分析によっていますが、回帰分析は因果関係を調べる手法のひとつとはいえ、必ず因果関係が成立することを保証するものではありません。

    三平論文が示しているのは、乱暴にまとめるのならば、追い貸し企業が多くなれば、その産業は生産性が相対的に低い傾向にある、ということに過ぎません。そこで存在し得る因果関係は、追い貸し企業が多くなることには生産性等を引き下げる効果がある、という三平論文が採ったものしかないのでしょうか?

    webmasterには、俗に言う構造不況業種としてある産業の生産性等が下がれば、当該産業の企業は他産業のそれに比べより多く経営悪化に陥り、その結果として追い貸しを受けざるを得なくなっている企業も多い、という別の因果関係も、それに勝るとも劣らぬ説得力を持つように思えます。いずれが正しいかを検証する能力はwebmasterにはありませんが、少なくとも三平論文の分析内容が正しかったとしても、追い貸しがマクロ経済に悪影響を与えたとの観察にそれを直ちに接続するのは、少々軽率ではないかという気がするのです。

    03/23/2007 (4:23 am)

    続・あるべき日銀の利上げ批判

    Filed under: economy, economics, BOJ ::

    先日の「あるべき日銀の利上げ批判」のコメント欄にて、韓リフさんとwebmasterとの間でコメントのやりとりが続いておりましたが、田中秀臣先生ご自身が本件についてのエントリを別途立てられたこともあり(韓リフさん=田中秀臣先生です。為念)、改めてエントリを起こしてみたいと思います。

    田中先生のご理解の枠組み

    若干長くなりますが、引用いたします。

     まず教科書レベル(具体的な教科書としてブランシャールの『マクロ経済学』を採用します)の話ですが、金融政策と株価の変動というのは関係します。どう関係するかは、教科書によると

    1)金融政策自体の変化によるショック

    2)(ニュース、政府統計公表などで)消費の変化・景気動向などが市場に伝えられたときのショック

    のふたつを原因にしています。そして各々市場参加者の期待(予測)のあり方が株価の変動や産出量の変化に関連してきます。株価の変動はショックの直近から観察可能ですが、産出量が実際にどう変わるかは時間を置かないと観察可能ではないでしょう。また2)の方は金融政策自体のスタンスをどう市場が予測しているかということにも関わります。ちなみにここでは予測と期待は同じExpectationの訳語として原則採用します。

     また株価は(教科書の定義を採用し)一年物の期待利子率の流列によって割り引かれた将来の期待配当の現在価値である、とします。

     まず1)では、いま書きましたように、市場参加者の予測のあり方が大きく関わります。

      1−a) 金融政策が予測どおりだった場合

      1−b)金融政策が予測どおりでなかった場合*

        *どの程度の人が予測どおりでなかったかどうかにこのシナリオは依存する部分が大きいです。

      1−a)では株価の定義から金融政策の動きを市場は織り込んでいるので株価は変化しません。

      1−b)では予期しない金融政策の変化があったので、修正された予測に応じて株価は変化します。

       小例1)予期しない金融緩和ならば、現在の利子率と将来の期待利子率は低下、期待産出量・期待利潤の増加を予測するので、現在の配当・将来の配当の増加。ゆえに株価上昇。

       小例2)予期しない金融引き締めならば、現在の利子率と将来の期待利子率は上昇、期待産出量・期待利潤の低下を予測するので、現在の配当・将来の配当の低下。ゆえに株価低下。

       小例3)予期すべきアンカーがないままなんらかの政策決定が行われたとき、市場参加者の予測形成もまたアンカーをもたない(株価は変化するがどう動くか予測することはできない)。

     この1−b)の小例3)はいまの日本のリークこみの金融政策のあり方を示しているように思えます。カシャップも次のような表現を使用しています。

    「「日銀はマスコミへのリークを政策ツールとして導入した。このため、市場参加者たちが、日銀の政策変更を根拠に基いて推測することはほとんど不可能と感じるという、かなり常軌を逸した事態となってしまっている」(svnseedsさん訳)

     以上の1)は金融政策と株価との関係を示していて、それぞれが株価の動き(動きの無い場合も含めて)をみて、金融政策を評価することに奇妙なことはないことを示しているといえるでしょう。

    (略)

     さらにこのグラタンという人が批判している「ほら言わんこっちゃない、日銀が利上げするから世界同時株安が起きた」というものをより直接にみておきましょう。これはブランシャールでは2)の応用となります。「今回の利上げが先月の21日、世界同時株安の発端となった上海が落っこったのが同27日」という事態もからめてよりもっともらしいシナリオを考えることになります。

     教科書的知識をまず整理しますと(ブランシャールはis-lmを利用しています)

    2)上海株式市場の下落という予期せざるニュースが生じる(これは日本経済の投資や輸出に悪影響を及ぼす)を考える場合ですが、

     2−a) 日本銀行が利上げをしていること(LM曲線は左上方シフト。またLM曲線の傾きは非常に緩やかだと仮定しても日本の場合は不都合はないでしょう)

     2−b)上海株の下落ニュースはIS曲線を左下方にシフトさせること

    以上から新しい均衡点はニュースの伝わる前の初期の均衡点よりもより高い名目利子率とより低い産出量に直面していると市場で期待されます。これは株価の定義から現在のより高い名目利子率とより高い期待利子率をもたらし、またより低い期待配当をもたらすでしょう。すなわち株価は現在において下落します。

    このときも上海株のニュースが日本銀行の利上げスタンスによって、直近の株価の変動として現れても不思議ではないことになります。なおこのときは市場が金融政策の動向を正しく予想していた場合を想定しています。つまり21日から26日までは1−a)のように市場の期待通りだったので株価の顕著な変動は起きなかった。予想通りに金融引き締めだった。しかし27日に予期しない上海株下落のニュースが飛び込んできたので、金融引き締めという日銀スタンスを正しく予測しているので、株価は非常に下がった、というわけです。

     ここでも上の見込みのない引用の主張とは反対に、日本銀行の利上げが世界同時株安に貢献していてもいい理論的証拠になると思います。つまりこれはなんらかのリスクの発生を考慮に十分いれないで金利を引き上げたことが、株価下落、将来の産出量低下を招く、と批判していい論拠となるでしょう。

    「見込みのない議論と株価と金融政策」(@Economics Lovers Live3/22付)

    田中先生とwebmasterとの行き違いその1‐「日銀が利上げするから・・・」の解釈

    株価下落と日銀の引締めとの関係については、実はwebmasterは上記引用の最後から2つめのパラグラフ(「このときも・・・」以下)のように理解してます。前回のコメント欄であれこれデータを引いたのも、「なおこのときは市場が金融政策の動向を正しく予想していた場合を想定しています。つまり21日から26日までは1−a)のように市場の期待通りだったので株価の顕著な変動は起きなかった」というようにwebmasterが状況を評価していることの説明、つまりは市場(参加者の多く)は日銀が引き締めると予測していたよね、ということをうかがわせる諸々をお示ししたものだということです。

    ではなぜ行き違ってしまったかですが、webmasterの日本語の感覚では、「日銀が利上げするから世界同時株安が起きた」というからには、「日本銀行の利上げが世界同時株安に貢献していてもいい」という程度では足りないのです。言い換えますと、田中先生がそのような事象までを「ほら言わんこっちゃない、日銀が利上げするから世界同時株安が起きた」の解釈に含めているとは考えがいたりませんでした。

    webmasterが「日銀が利上げするから・・・」という文章から想定するのは、日銀の利上げが上海の株価暴落を引き起こしたとか、日銀が利上げしていなければ上海の株価暴落は上海に留まり他国には波及しなかったとか、そういう状況ということになります。日銀が利上げしなければある程度は各国の株安が小さくなっていたかもしれないけれども、それなりの株安の連鎖は不可避であったと見込まれるというような状況には、そのような表現は当てはまらない(とりわけ「から」の部分)というのがwebmsaterの語感です。

    したがって、「日銀が利上げするから世界同時株安が起きた」の解釈として、日銀の利上げが世界同時株安の直接の原因になったとの意味に限定せず、それを助長した可能性をも含むとの前提の下では、webmasterは田中先生のご見解に同意いたします。

    田中先生とwebmasterとの行き違いその2‐一般論と個別論

    前回のエントリのコメントでも書きましたが、一般論として金融政策が資産価格に影響を与え得ることはwebmasterも認めています。この一連のやりとりの中でwebmasterが否定的に解していたのは、(上述の理解としての)株価下落から日銀批判を実証ないし蓋然性の高い論理展開を経ずして導き出すことです。

    言うまでもありませんが、資産価格に影響を与え得るのは金融政策に限りません。顕著な資産価格変動が起こった際に、その要因が数多あるその候補たちがどう影響を及ぼしたかを検討した上で、金融政策の寄与度が有意に存在すると示してこそ、資産価格変動をもって金融政策を論ずることができるというものでしょう。言い換えれば、それなりの根拠を揃えてから批判しましょうよ、ということです。

    ところが、田中先生は、webmasterのこのような議論を、次のように解されています。

    で、逆に切り返しますが、中銀が裁量的政策で株価に影響を与えることは「まったくない」理論というのはあるんでしょうか? あるならば教えていただけますでしょうか? なければそれはbewaad-グラタンの妄想でしかないと思います。

    「あるべき日銀の利上げ批判」(3/9付)に対する韓リフさんのコメント

    そんな理論の存在など知りませんってば(笑)。先般の世界同時株安における日銀の利上げの寄与度はほんの脇役程度でしかない可能性がある(ので、上述の意味で「日銀が利上げするから世界同時株安が起きた」と主張するのであればそれにふさわしい根拠が必要ではないか)と指摘することが、何ゆえに日銀の利上げは株価にまったく影響を与えないと主張することと同じ扱いになるのか、webmasterには理解不能です。

    勝手な想像をするなら、グラタンさんが「心理的ショックの要因で動く短期的な株価動向」としたことについて、短期的には株価は心理的ショック要因でしか動かない(心理的ショック要因以外に短期的な株価動向を左右するものはない)と解されたのかな、とは思います。webmasterはそういう趣旨ではなく、理屈に裏付けられた心理的ショック要因以外の短期要因を否定するものではないと解し(たことに加え、あくまで枝葉の記述と位置づけ)たのでこだわりませんでしたが、田中先生の解釈を前提とすれば、それに賛成するものではないことは、念のため申し添えます。

    田中先生とwebmasterとの行き違いその3‐「裁量」の理解

    「その1」で書いたとおり、webmasterは昨今の状況を田中先生の整理でいうところの「1−a)」だと理解しています。同時にwebmasterは日銀の裁量性についても批判的なのですが、ここでいう「裁量」とは、日銀法上、日銀のミッションは物価安定であると明記されているにもかかわらず、手前勝手な理屈を持ち出してミッションをないがしろにしていることです。

    カシャップの言についても、webmasterはこうした文脈において評価し、「日銀はマスコミへのリークを政策ツールとして導入した。このため、市場参加者たちが、市場参加者たちが、日銀の政策変更を根拠に基いて推測することはほとんど不可能と感じるという、かなり常軌を逸した事態となってしまっている」というのは、市場参加者の金融政策の予測が、ミッションに照らして(=物価動向を見て)どうかというものではなく、金利の正常化等の勝手な理屈に即したものとなっているというように捉えなおせば正しい指摘だと考えています。

    #あえて「捉えなおせば」としているのは、カシャップ自身はこれに続いて「日本の金融政策がどこへ向かっているのかについてのはっきりした認識はないように思われる」としているので、彼の主張をその趣旨に忠実に解するならば、それに対してはwebmasterは懐疑的だからです。その後に、日銀がデフレ下であるにもかかわらず利上げをする理由は何かを考察されているのですが、カシャップはそれらいいかげんな理由と明確なミッションとの矛盾ゆえに、日銀の将来の政策決定に不透明さを見出しているのだとwebmasterは察しています。他方で管見では、日本の市場参加者はそれほど誠実に悩むことなく、ミッションはある種の建前のようなものに過ぎず、本音である金利正常化路線に従って引締めが続くであろうと割り切って将来の金融政策を予測している(ため、混乱せずにはっきりした認識を持っている)のではないでしょうか。(webmaster注:以上、カシャップのテキストはsvnseedsさんの邦訳によります。)

    他方で田中先生は、「その1」で書いたような枠組みをも提示されているのでその点に留意は必要ですが、引用部前半の「この1−b)の小例3)はいまの日本のリークこみの金融政策のあり方を示しているように思えます」との記述や、先に引用したコメントの別の部分において金融政策の裁量性が顕著なときには、株価が乱高下することは理論的には十分予測できますとされていることから、昨今の状況を「1−b)・小例3)」であるとご理解されているとwebmasterは認識しています。

    #このwebmasterの認識が正しければ、カシャップの意図に即した議論をされているのは、webmasterではなく田中先生です。為念。

    「その2」の議論の延長のようなものですが、「金融政策の裁量性が顕著なときには、株価が乱高下することは理論的には十分予測でき」るからといって、「株価が乱高下」したら「金融政策の裁量性が顕著」である(当然ながら、ここでいう「裁量」はwebmasterの理解ではなく「1−b)・小例3)」に掲げられたものとなります)とは限りません。その余の要因が大きく働いているのであれば、「金融政策の裁量性が顕著」でなくても「株価が乱高下」することになりますから。

    言い換えるなら、「株価が乱高下」していることをもって「金融政策の裁量性が顕著」であるとの批判をなすのであれば、単に「株価が乱高下」しているという事実を指摘するのでは根拠として十分ではなく、その余の要因によるものではないことをも同時に論証すべきであるとwebmasterは考えます。そうでなくてはトートロジーになってしまうでしょう。

    #本当に「株価が乱高下」しているのかどうかも、本来であれば検証すべきでしょうけれども(例えば、株価のヴォラティリティを時系列で比較するなど)。

    とりあえずwebmasterは、「株価が乱高下」していることがその余の要因によるものだとの論証はしていませんが、市場参加者にとって、日銀の行動が「1−a)」として受け入れられていることを示唆するデータを、一連のやりとりの中で示してきました。仮にwebmasterの観察が当を得ていて「1−a)」として受け入れられているのであれば、田中先生がお示しのとおり、利上げは「株価が乱高下」することにつながるものではないので、「株価が乱高下」しているがゆえに(田中先生やカシャップの文脈において)「金融政策の裁量性が顕著」であるとの批判は当たらないということになります。

    #このことは、webmasterの文脈における「裁量」が批判に値することを否定するものではありません。為念。

    ことは理論的な可能性が複数考えられる場合において、現状をよりうまく説明する、あるいは当該局面の理解としてより整合的なものは何かというものですから、理論的な可能性をお示しいただいても致し方ないのではないでしょうか。「1−a)」ではない蓋然性を示すデータなり、「1−b)・小例3)」であることを裏付けるデータなりをお示しいただければ、と思います。そうであるならば、より説得的な仮説として賛成させていただきます。

    03/21/2007 (1:27 pm)

    平成デフレの経済学的検討と経済政策のあり方(後編)

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    一昨日の続きです。

    オルタナティヴ再び

    話は変わります。適正な金利水準もなんとかリアルタイムで計測可能だとします。デフレ期を均してみれば(短期)実質金利はだいたい1〜2%といったところでしょうけれど、3%が適正な実質金利の水準であったと当時判明していたと仮定しましょう。そのぐらいであれば、適度に「ゾンビ企業」にdispelを食らわせる(ごめんなさい、Wizardryネタです)一方で、需要はそれほど減衰せず、最適な実質成長率が確保される、そういう状況であったと考えてみるのです。

    ここで実質金利がだいたい1〜2%とは、名目金利がゼロである一方で、インフレ率(GDPデフレータを念頭に置いていますが、それは本質ではありません)が▲2〜▲1%であったということです。これを3%に引き上げるためには、実績から出発するならば、単純な算数の問題として、

    1. 名目金利を1%程度まで引き上げる、
    2. インフレ率を▲3%程度まで引き下げる、

    のいずれかということになるでしょう。

    しかしながら、これは「実績から出発するならば」という前提があっての話です。実質金利の定義とは、

    • 実質金利=名目金利−インフレ率

    ですから、実質金利3%を満たす名目金利とインフレ率の組み合わせは無限に存在します。例示するなら、

    • 名目金利3%、インフレ率0%
    • 名目金利10%、インフレ率7%
    • 名目金利100%、インフレ率97%

    のいずれにおいても、実質金利は3%となります。となれば、どの組み合わせによる「実質金利3%」がよいのかを検討すべきでしょう。

    インフレ率と市場の調整機能

    さて、「ゾンビ企業」がはびこると何が悪いのかという当初の問題意識に立ち返ってみます。市場の調整機能とは、煎じ詰めれば各種の資源をよりうまく使える者にあてがうことです。「ゾンビ企業」とは、資金にせよ労働力にせよ、その有する資源を有効活用できないにもかかわらず、本来ならば有効活用できないなら競争に敗れて市場から退出するものを、銀行の追い貸しで市場に留まり続けることができるため、資源を抱え込んでいる存在です。そのため、「各種の資源をよりうまく使える者にあてが」うことができなくなっていることが問題だということになります。

    #で、実質金利が高くなれば、(仮に追い貸しを受けることができても)金利が払えずに退出に追い込まれる、というわけです。

    このような話を持ち出したのは、「実質金利3%」を構成する名目金利とインフレ率の組み合わせを選ぶ際にも、この観点から検討することが適切だからです。市場の調整機能を損なう「ゾンビ企業」を退治する手段として、別の形で市場の調整機能を損なうものを持ち出しては台無しです。

    (高率の)インフレはよくないことだとはよく言われますが、それもこの文脈においてのことです。資源を有効活用できるかどうかは、市場においては、より高く買うかどうかで振り分けられます。高い値段を出してでも割に合うとは、それだけ有効活用できるからだ、ということなのですが、物価がどんどん上がっていくような状況では、この振り分けの基準がうまく働かないのです。

    例えばAさんがとある不動産を1億円で買おうとBさんと交渉していたとき、Cさんが後からBさんに自分なら2億円で買うよ、と言ってきたのでBさんはCさんに2億円で売ったとします。本来であれば、CさんはAさんより2倍の対価を支払っても割に合うと考えているということで、Cさんにこの不動産が渡った方がより有効活用されるということになるでしょう。

    しかし、物価が激しく上昇しているような場合においては、Cさんが2億円で買うといったときにAさんに再確認すれば、実は2.5億円で買うというかもしれません。Aさんの提案とCさんの提案との間に1ヶ月の間が空いていたとして、物価が1ヶ月で2.5倍になるような状況においては、Aさんが適正な対価として思い描いた1億円は、1ヶ月後には(平均的には)2.5億円になっているわけです。

    このほか、ものを売る側の売り惜しみ(もう少し待てばもっと高く売れるかも、というもの)や買う側の買占め(オイルショック時のトイレットペイパーが有名な例でしょう)もまた、適正な価格・タイミングでの取引を阻害し得るものですから、適正な資源配分を損なうものと言えましょう。価格は財やサービスの価値を図る物差しですから、それが伸び縮みするようでは困ってしまうのです。

    よって、「実質金利3%」といっても、先の例で言えば名目金利100%とインフレ率97%なんていう組み合わせでは、せっかくの「ゾンビ企業」を退治する効果も減殺されてしまうでしょう。

    適正な「実質金利3%」

    では、インフレ率は低ければ低いほどいいのでしょうか。低さを極めればマイナス、すなわちデフレの状況が思い浮かびますが、この状況下では物差しの伸び縮み以外にも困ったことが生じます‐もちろん、市場の調整機能の観点から。それは、価格の下方硬直性の存在です。

    例えば理屈からいって、名目金利はマイナスにはなりません。というのも、マイナスでお金を貸すぐらいならば現金のまま持っておいた方が得だからです。金利はお金の値段ですから(金利1%とは、1年間お金を自由に使う対価がそのお金の1%分だ、ということです)、お金の貸借には価格の下方硬直性が存在します。また、賃金の下方硬直性も、経験則的によく知られているものです。

    こうした価格の下方硬直性がある財・サービスと、それがない財・サービスとの間では、デフレにおいては物差しが歪みます。前者は本来価値が減じているにもかかわらず、物差しはその価値の減少を正しく表しません。一方後者は、価値の減少が正しく物差しに反映されます。これら両者が同じ価格だとしても、前者は過大表示、羊頭狗肉の状態になっているわけですから、資源配分がうまくいかなくなってしまいます。

    とすれば、物差しが歪まない状態=インフレの状態こそが、市場の調整機能が適切に発揮される前提である、ということがいえます。あまりに高ければそれはそれで問題だとは既述のとおりですが、それほど高くはない水準‐年2〜5%ぐらいといったところでしょうか(もうちょっと高くてもよいのですが、世間的なインフレへの嫌悪からすれば、この程度でしょう)‐であれば、高率のインフレの副作用はほぼなく、他方で下方硬直性に由来する物差しの歪みからもまぬかれるということになるわけです。

    #よりご関心の向きはkaikajiさんによるアカロフらの議論のご紹介をご覧いただければ。

    以上から、「実質金利3%」を実現するにしても、名目金利が5〜8%、インフレ率が2〜5%といった組み合わせが良さそうだ、ということがいえるのです。

    急がば回れ

    この組み合わせは如何にして実現できるかを考えれば、結局のところはリフレ政策ということになるでしょう。リフレ政策といってもヴァリエイションがありますが、少なくともスヴェンソン提案の「バカでもできる(the Foolproof Way)リフレ政策」がバカではできないとの指摘はwebmasterは寡聞にして存じませんので、これによれば必ずマイルドインフレは達成できると考えて問題はないはずです。

    問題があるとすれば、マイルドインフレ達成過程においては実質金利が下がる=「ゾンビ企業」が生き延びやすくなることですが、その期間がそれほど長くなければ、遠からず「ゾンビ企業」からは資源が解放されるのですから、それほどの実害はないでしょう。実質金利を上げたことで継続が見込まれるデフレ下において、資金の貸借市場や労働市場での調整がろくに働かずに資源配分が損なわれることに比べれば、少しでも早く「バカでもできる」方法でマイルドインフレにしてしまってから実質金利を上げ、存分に「ゾンビ企業」を土に還す方がよほどましです。

    ちなみにこの議論は、現状の日銀の行動への皮肉としても通用します。もし巷間言われるように(公式には認めていませんが)金利の正常化=現状よりも高い名目金利を目指しているというのであれば、一定の実質金利水準を念頭に置いていると仮定すると、インフレ率を上げることこそが名目金利を上げる早道になるからです。ちまちまと実質金利を上げてインフレ率を頭打ちしているようでは、かえって名目金利はなかなか上げられないのですよ、と。

    (完)

    えっ、「完」じゃなかったの?

    林先生編集の3巻本(の一部)を読まれたkoiti_yanoさんのエントリは、ここでの一連のエントリよりもよほど有益ですので、よろしければお読みいただければ。

    03/19/2007 (8:38 pm)

    平成デフレの経済学的検討と経済政策のあり方(前編(下))

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    昨日の続きです。

    非伝統的金融政策の枠組みにおける日銀に対する評価

    では、非伝統的金融政策の枠組みにおいてはどうでしょうか。わざわざ分けたからには、というご期待を裏切るのもなんですが(笑)、基本的には伝統的金融政策の枠組みにおけるものと同じで、少なくとも実質金利がどうであったかという点で判断する限り、それが高止まっていた、すなわち緩和が十分ではなかった点において、インフレ率が低下した場合and/or不況の場合には金融を緩和すべきとの従来からの理解に照らせばなすべきことをしたとは言い難いのです。

    唯一、非伝統的金融政策の有効性については、もちろんwebmasterは有効であると推測しているわけですが、伝統的金融政策のそれに比べれば不確かであることは否めません。実際に非伝統的金融政策の枠組みにおいて積極的な金融緩和に努めた場合に、結果として十分な実質金利の引下げが実現できなかったようなときには、やむを得なしとの評価が下される可能性は十分にあります‐日銀がとった行動は「積極的」とは評し難いので、この可能性はあくまで可能性にとどまるわけですが。

    TFP仮説に基づくオルタナティヴ

    ここまで、従来からの経済政策に関するオーソドックスな立場からは、いわゆるバブル崩壊後の日本経済においては、より一層の金融緩和が求められこそすれ、引き締めた方がよかったとは言えないことを示してきました。しかしながら、「承前」において引用したように、緩和すべきでなかったという分析があります。改めて引用してみましょう。

    今までのリフレ論者は、学部の教科書どおりに「不況時には金融緩和を」と言っていたわけだけれど、今実証研究で明らかになってきているのは、金融緩和による銀行の延命措置が、生産性の低い企業の退出を鈍らせ、むしろ経済全体の生産性を落とすことでバブル崩壊からの回復を遅らせてしまった可能性があるということ。

    いちご経済/経済学板「トンデモ経済学家元追求委員会vol.8」スレ・レス395(webmaster注:改行位置等を適宜整形しています)

    この「可能性」が正しいと仮定するのが本稿の前提ですので、その場合には、

    1. 金融を引き締めることにより貸出しがさらに滞り、
    2. それにより生産性の低い企業がより多く倒産=退出し、
    3. 結果として経済全体の生産性が回復していた、

    ということになるわけです。

    オルタナティヴの実現可能性

    ではこの路線の金融政策を実現する方向で詰めてみます。不況期には金融を引き締めれば引き締めるほどよい、というほど過激なパラダイムシフトを含意はしていないでしょうから(笑。それならば金利を上げれば上げるほどいいということで、金融政策にまつわる悩みなどなくなります)、金利引上げに伴う次の2つの効果をにらみながら最適な金利水準を模索するということになるでしょう。

    • 投資需要を冷え込ませる効果
    • 企業の退出を促し全体としての生産性を向上させる効果

    前者は金利と逆相関(金利を上げれば需要が下がる)にあり、後者は順相関(金利を上げれば生産性が上がる)ということは直感的にわかるでしょう。さらに、それぞれの限界効果が低減する(金利の上げ下げに伴う影響が次第に減っていく)ことから、金利を上げていけば、どこかで需要の冷え込みの増分(=需要の減分)が生産性向上の増分が等しくな(り、さらに上げれば需要減が生産性増よりも絶対値で上回)ることになりますので、その等しくなる水準が適正金利であるということになります。

    さて、ここで問題なのが、この「適正金利」の水準がどの程度であるのかということ。webmasterの知る限り、具体的な適正金利の水準についての言及はありません。具体的な水準がわからない以上、上記の「可能性」が正しいとしても、金融政策の指針としては使いづらいということにならざるを得ません。実体経済の様子を見ながら、などということになれば、金融政策の効果は1年前後のタイムラグを伴うことが経験的に知られていますから、上げすぎたとわかったときには手遅れということにもなりかねません。

    さらに言うならば、リアルタイムで「適正金利」の水準がわからない以上(事後ですら判明していないのですから)、例えば非伝統的金融政策の枠組みの下において、リフレ政策が採用された場合であっても、そこで実現する(実質)金利が「適正金利」を上回っているのか、それとも下回っているのかすらもわからないわけです。であるならば、実は金利を引き上げていいのかすらもわからない、というのが実態なのです。

    政策が誤っていた場合の影響評価

    そのような環境において、果たして金融を引き締めるべきか緩和すべきか、ひとつの基準としてミニマックス法を用いてみましょう。すなわち、想定される最大の損害の最小化です。オルタナティヴから考えるならば、生産性向上効果はすでにそれほど見込めない一方、需要の冷え込みが極めて厳しくなるような状況です。

    この場合、需要が十分に落ち込んでいるのであれば、生産性に優れた生存企業の供給能力で需要を満たすことができてしまうため、生産性向上=供給効率の改善があったとしても、絶対値自体は上がらないということになります。言い換えれば、「ゾンビ企業」に退蔵された生産資源が解放されたところでその行き先はなく、生産性に優れた生存企業による投資増を通じた経済全体の活性化という途は閉ざされてしまっているわけです。

    以上は国内民需の話ですが、では他に生存企業の投資を誘発するような環境があり得るのかを考えてみましょう。引き締め=一般論としての円高トレンド下での外需や、金利負担が増え維持可能性がますます怪しくなる公共部門の需要も期待できないのですから、これまたなかなか難しいということになるでしょう。

    他方で、金融緩和が間違っていた場合の損害はどうでしょうか。

    望ましい日銀の「責任逃れ」

    金融を引き締めれば、それが「ゾンビ企業」かどうかの疑義はさておくとして、多くの企業を退出に追い込むことができるでしょう。では、金融を緩和していればそれが不可能かといえば、必ずしもそうではありません。

    「ゾンビ企業」と追い貸しはセットで語られていますが、とりあえずある企業が「ゾンビ企業」であるとした場合、追い貸しが可能であるのは金融緩和がなされているからだけなのでしょうか。そうではなく、不良債権の存在を許容する金融監督・会計基準あってのことです。それらがきちんと整備・運用されているならば、いくら金融が緩和されていたところで、「ゾンビ企業」への追い貸しは不可能でしょう。

    先のオルタナティヴとの対比で言えば、引き締めとは異なり緩和の場合には、間違っていた場合にも他の手段で補うことが可能だということです。金融セクターにとどまらず、他の分野においても、市場の調整機能を損なうような諸要因を取り除いていくことができれば‐それが昨今の「構造改革」とイコールかどうかは措くとしても‐、過てる金融緩和により生産性向上効果が減殺された場合であっても、その狙いの実現は可能なのです。

    したがって、TFP仮説が正しかったとしても、「適正金利」の水準がリアルタイムにはわからないこの世においては、市場の調整機能の不全により生産性向上が滞っていると考えられる場合には、市場の機能回復の必要性を訴えつつ、金融を緩和するというのが中央銀行の施策として無難であるのだとwebmasterは考えるのです。

    実際の日銀を見れば、前者はしても後者はしなかったわけですが、市場の機能回復の必要性は誰にでも主張可能ですが、金融緩和は中央銀行にしかできないのですから、やはり落第だとせざるを得ないでしょう。金融を緩和しつつも、市場の調整機能が働いていないから生産性が向上しないのだと「責任逃れ」をすればよかったわけですが、(本稿の仮定の下では)生産性向上が滞るのを座視できなかったとは、あまりに真面目すぎたのでしょうか、日銀は(笑)。

    (続く)

    03/18/2007 (10:42 pm)

    平成デフレの経済学的検討と経済政策のあり方(前編(上))

    Filed under: economy, economics, BOJ ::

    さて、改めて本稿の問題意識を示すと、次のようなものとなります。

    • 平成デフレの原因はTFPの低下によるものであるとの仮説が正しかったとして、実際に日銀が採用した以上の積極的な金融緩和は行われるべきではなかった、と言えるのか。

    以下、次の観点から、やはりより積極的な金融緩和は行われるべきであったとのwebmasterの主張を述べたいと思います。

    1. 当時入手可能であったデータ制約とミニマックス(最悪のケースでのダメージ最小化)行動原理
    2. 不況とデフレとの関係

    金融政策の経緯

    いわゆるバブル前からの金融政策を大雑把に分類するならば、次のようになるでしょう。

    いわゆるバブル前〜バブル前半
    インフレ率は安定的に推移していたものの、マネーサプライは大幅に伸びている中で、緩和的な金融政策が継続していた。
    バブル後半
    バブルつぶしとして、積極的な金融引締めが行われた。
    バブル崩壊後〜1999年(ゼロ金利以前)
    経済成長の低迷に伴い、伝統的金融政策の枠組みの中で金融が緩和された。
    1999年〜2006年(ゼロ金利〜量的緩和)
    政策金利がゼロ下限に達したため、非伝統的金融政策についての議論がなされる中、量的緩和政策が採用された。
    2006年〜
    「いざなぎ超え」と言われる景気回復を受け、徐々に金融引締めに転換している。

    伝統的金融政策と非伝統的金融政策

    上記を前提に改めて金融政策の枠組みを論じるのであれば、伝統的金融政策と非伝統的金融政策の違いを踏まえておくことが有益でしょう。といっても話は単純で、金利の上げ下げで金融調節を行うことが伝統的金融政策、金利がゼロ下限となり「下げ」ができなくなった状況において、それ以外の金融調節で更なる緩和を図ることが非伝統的金融政策ということになります。

    なぜこんなことを今更ながら、という向きもありましょうが、冒頭に掲げたデータ制約ということからすれば、これらの違いは大きな意味を持ちます。というのも、伝統的金融政策とは「伝統的」という言葉が冠せられていることが端的に示すように、どのような場合にはいかなる対応が求められるかが相当程度定型化されているからです。他方で、非伝統的金融政策については、少なからず手探りの状況であったことは否めないでしょう。

    伝統的金融政策の枠組みと金融緩和

    リフレ政策といえばインフレターゲティングの導入とマネタリーベースの積極的増加というパッケージ、という理解からすると意外に思われる方も多いかもしれませんが、いわゆるバブル崩壊を1993年と仮定しても(株価・地価ともに下落に転じた後です。為念)、それ以後の金融緩和局面において、伝統的金融政策の枠組みにあった期間と非伝統的金融政策の枠組みにあった期間とは、それほど差があるわけではありません‐1993年〜1999年(2月)の6年強と、1999年(2月)〜2006年の8年弱です。

    #バブルつぶしの引締めの是非は、本稿の文脈からは逸れるでしょうから、あえて取り上げません。

    つまり、インフレターゲティングは危ういとかマネタリーベースを増やしてどうなるといった議論は、バブル崩壊から今に至る期間の後半において基本的に妥当する議論ということになります。それ以前の期間においては、伝統的金融政策の枠組みにおいて、日銀は今よりもできることがあったのではないか、という指摘の是非を論ずることが、まずは求められると考えられるでしょう。

    GDPデフレータで見れば1995年にはデフレ下にあり、その際にはすでにインフレターゲティングの導入が必要であった(デフレでなくてもそうあるべきだという一般論でなく、中長期的な物価へのコミットメントにより実質金利を下げるという趣旨です)というのがwebmasterの立場ではあります。ここで論じるのは、当時において史実よりましなことができたのではという「ましなこと」について、インフレターゲティングがなくともできることはあったよね、ということになるわけです。

    この期間においては、さらに政策金利を下げる‐期間の後半においては、早くゼロ金利にするということになるので、境界線上には踏み込むわけですが‐ことにより、金融緩和を図ることが可能でした。では、政策金利を引き下げるべきであったといえるのでしょうか。

    テイラールールとAhearne論文

    伝統的金融政策の枠組みの下で、金融引締め・緩和が適切に行われているかを判断するひとつの基準として、テイラールールがあります。昔の当サイトのエントリにリンクを張って説明を省略したいのですが、自ら止めている状態ですから改めてご紹介するならば、FRBの政策を事後的にジョン・テイラー教授が検証した結果として、景気(GDPギャップ)とインフレ率を両にらみで金融政策(政策誘導金利)を決定していくと塩梅がいい、というものです。

    このテイラールールを当時の日銀の行動に当てはめて分析したものとして、次の論文があります。

    この論文では、テイラールールに照らして日銀の金融緩和は不足であった‐ゼロ金利制約に近づいていた状況を踏まえればなおさら‐(3/20追記)とし、より積極的な金融緩和があれば、日本はデフレに陥らずに済んだであろうとしています。

    同旨の分析は他にもあるわけですが、この論文の重要な意義は、学界における論戦以上に、金融政策の担い手である中央銀行(アメリカですから、当然FRB)においてなされたことです。この論文発表時のアメリカはITバブル崩壊に直面していたわけですが、それに対してFRBは、本論文の説くとおりに積極的な金融緩和をもって応じ、結果としてデフレ突入の危機を脱しました。

    伝統的金融政策の枠組みにおけるFRBと日銀に対する評価

    1990年代に日銀が直面した状況と、2000年代初にFRBが直面した状況が異なるのは当然です。したがって、ここでFRBが採用した金融政策が、必ずしも1990年代に日銀が採用すべき金融政策であったとは限りません。更にいうなら、FRBの金融政策自体、本当に正しかったかどうかはわからないというのが正確なところでしょう‐林先生の研究と同様の指摘が当てはまり、そのような金融緩和をせずにゾンビ企業を撲滅していた方がよかった、という後世の評価があり得ないとは断言できないでしょう。

    されど、そのような可能性があると指摘したところで、おそらくFRBは自らの選択を(その時点のものとしては)正しかったと胸を張るのではないでしょうか。結局のところ、不況期には金融緩和をという経験則も、デフレは価格の下方硬直性などの存在ゆえに市場の調整機能を著しく損ねるという経験則も、デフレが生じそうな場合においては積極的な金融緩和を是とし、それを直近の事例(=反証としての1990年代の日銀)で確認したFRBは、その信ずるところにしたがって行動したわけです。

    FRBとしては、仮に将来、不況には金融引締めが適切であるとの知見が固まったならば、それに応じて金融政策の運営方針を変えることもやぶさかではないのでしょう。しかしながら、その可能性を留保して何もしない(あるいはこれまでの経験則に反して金融を引き締める)ことは到底とり得ない選択であったはずです。結果として過ちを認め行動を改めることと、判断したことそのものを誤りであるとすることは、必ずしも同じではないでしょう。

    その裏返しとして、日銀の金融政策についても、当時の知見に基づきなすべきことをなさなかったとの批判は、結果としてさらなる金融緩和が誤りだったとの検証がなされた後においても、なお有効であるとwebmasterは考えます‐法学的にいうならば、善管注意義務違反ということになりましょうか。異なる表現をするならば、結果は必ずしも過程を正当化はしないのです。

    (続く)

    03/17/2007 (9:12 pm)

    平成デフレの経済学的検討と経済政策のあり方(序)

    Filed under: economy, economics, BOJ ::

    先日のエントリにて、このレスに続いて同スレでは興味深い議論が行われているのですが、それについてはまた別の機会にと申し上げたところですが、いよいよ取り上げてみたいと思います。

    その議論において重要な問題提起を行っているのは、次のレスでしょう。

    395: 名無しさんの冒険  2007/03/14(Wed) 01:35

    最後に、修士卒ドロップアウトの生かじり学問を展開させてもらうと(少なくとも経済学を全く大学院でやってない人よりはましな解説のはず)

    1.90年代のバブル、特に、バブル崩壊後日本経済に何が起きていたのかなどということは、実は実証のレベルでは「まだまだよくわからない」というのが今の時点で学問的に言える唯一の事柄なんだよ。

    林さんの全要素生産性に関する指摘は、その意味で非常に重要で、ジャーナリストやアマチュア、ごく一部の三流の学者が指摘していたように、金融緩和をすればそれで何とかなったなどという、単眼的かつ単純に過ぎる結論を直ちにとる事ができないのではないかという非常に大きな問題提起になった。

    今までのリフレ論者は、学部の教科書どおりに「不況時には金融緩和を」と言っていたわけだけれど、今実証研究で明らかになってきているのは、金融緩和による銀行の延命措置が、生産性の低い企業の退出を鈍らせ、むしろ経済全体の生産性を落とすことでバブル崩壊からの回復を遅らせてしまった可能性があるということ。

    今、次第に明らかになってきている問題点を考慮したうえでなお、リフレで日本経済が再生すると言っていた人は全くいないといって良いんじゃないだろうか。一つだけ確実に言えるのは、経済学はその扱う対象の複雑性から、「〜をすればなんとかなった」とか「〜が政策として正しい」なんてバッサリ決め付けられるような学問ではなくて、決め付けられないものに一義的な解を実証研究の出揃わない段階で提出しているとしたら、要するにはそれはただの決めつけに過ぎないということ。

    どんな政策にも正・負それぞれの側面があって、そのどちらが大きいものとなるかはよほど慎重に考慮して初めて決まるか決まらないか、学問の世界は少なくともそういうもの。(政策決定の場合にはそんな悠長なことは言っていられないのは当然なんだけど)

    よく知りもしないから問題の複雑さに気付けずにバッサリ決め付けてしまうというのは初心者と中級者にありがちな誤謬だね。

    いちご経済/経済学板「トンデモ経済学家元追求委員会vol.8」スレ・レス395(webmaster注:改行位置等を適宜整形しています)

    「1.」とあるので「2.」以降が出てからと思っていたのですが、これで尽きているようですので議論をはじめさせていただきます。

    ここで「林さん」と書かれているのは林文夫先生ですが、そのご主張は次の3冊において現時点での集大成となっているようです(林先生はあくまで編著者であって全ての論文の著者ではありませんが、ご自身が代表を務められたプロジェクトの成果をまとめたものですので、全体の方向性には大きな異論はないものと理解しています)。

    「なっているようです」という表現なのは、webmasterが未読であるからで、したがって内容については踏み込むつもりはありません。395さんがお書きのような内容であるならば、従来より全要素生産性の低下がデフレ不況の原因であるとの主張に対して呈してきた疑問、すなわち、

    • 生産性が低いとは原因ではなく結果ではないか、
    • 生産性の低い企業が資本や労働等の生産資源を退蔵していたというのであれば、とりわけ資本については、そうした企業とのしがらみの少ない銀行(外資系、東京三菱(当時)や各地の優良地銀等)まで貸出しを伸ばせなかったことの説明が可能なのか、
    • 生産性の低い企業をつぶせばつぶすほどマクロがよくなるといえるのか、

    等が頭をよぎりますが、これらについては上記3冊で答えが出されているやもしれず、そうであるならばwebmasterも自説を改めることを真剣に考える必要があるでしょう。「アマチュア」の「単眼的かつ単純に過ぎる結論」なのだそうですから(笑)。

    ただし、それはあくまでも今後は、という話であって、仮にそうであったとしても、これまでリフレ政策の実施を説いてきたことが誤りであったかといえば、そうではないように思うのです。

    (続く)

    03/12/2007 (8:19 am)

    岩田規久男「そもそも株式会社とは」

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    岩田規久男「そもそも株式会社とは」

    従業員主権論と株主主権論という株式会社に関する2つの見方の比較対照を中心に、多くの先行研究を参照しつつ、会社の付加価値の主要な源泉足り得る従業員への正当な評価の必要性を認めるとともに、外部チェックの必要性の観点から株主主権論への不当な評価を批判するのが本書です。以前、webmasterは次のように会社を乱暴に理解することの問題を説いたのですが、

    次に法人名目説と法人実在説についての議論だが、そもそも人がつるんでなにがしかの行動を行うという実態が先にあり、それをコントロールするために会社法が定められ(、さらにそれを支える理論として法人○○説が唱えられ)ているのだから、会社にそれぞれの要素があるのは当たり前。演繹的にそもそも法人とは○○であって、と論じてみてもどこかに矛盾を来すのは必然である。

    二歩目はこれからどこへ踏み出すべきか−「会社はこれからどうなるのか」(岩井克人著)(webmaster注:現在、tDiaryを停止していることとの関係で、拡張子が”.html”のものは404エラーになるよう設定しています。Googleキャッシュなどお使いいただければ・・・)

    そうした立場からすれば、観念論に流れることなく事実を積み上げて論ずる本書はお薦めといえます。

    #そういえば、「従業員主権」「株主主権」という場合の「主権」って、英語では何ていうんでしょうか? “sovereign(ty)”(3/15訂正)ではないですよね?

    以上の肯定的評価を前提に、気になった点を3点。

    1点目ですが、

    日本の大企業の経営者は株主の支配から自由でした。そのため、経営者は株主に株式市場で決まった株式収益率を保証するという目的も、株価を引き上げるという目的も持っていませんでした。経営の主たる目的は、高い売上高成長率やマーケットシェアの拡大、新製品や新事業の開発などでした。このような経営目的のもとで、高い経済成長率が実現したため、会社の収益も拡大し、その結果、株価は趨勢的に上昇しました。株価が趨勢的に上昇したために、低い配当にもかかわらず、長期保有の株式については、結果的に高い株式収益率が実現しました。

    p92

    との記述についてです。

    配当政策についてのMM(Modigliani & Miller)命題を前提とすれば、利益を配当に回そうが内部留保から再投資に回そうが、株主にとっての利益は変わらないことになりますから、「株価が趨勢的に上昇したために、低い配当にもかかわらず、長期保有の株式については、結果的に高い株式収益率が実現しました」というのは因果関係が逆ではないでしょうか。企業の生産活動そのものが株式収益率を決定するのであって、生産活動そのものが好調であれば配当政策に無関係に株式収益率は高くなりますし、逆もまたそうです。

    もちろんMM命題は必ず現実に妥当するものではなく、税制の違い(キャピタルゲイン課税と配当課税が異なれば、株主にとって有利な税制の方による(税調整後の)株式収益率が高くなります)や内部留保による再投資機会の競争性(Googleや以前のMicrosoftが無配当だったのは、彼/女ら自身の投資機会が他のそれよりも収益率が高く、加えてそこへの参入がなかったので、内部留保に回したほうが株式収益率が高くなるからです)などにより、現実にはいずれかの株式収益率が好まれることがあります。しかし、そうした検証もなく、アプリオリに配当があたかも好ましい利益処分で、内部留保・再投資は結果として偶然にも成功したのだというのは、理論的にいかがでしょうか。

    2点目ですが、

    ケスターが日本型企業統治を検討する際に用いているのは、マイケル・ジャンセン(ハーバード大学経営学部教授)のフリー・キャッシュ・フロー理論(Jensen(1986))です。

    フリー・キャッシュ・フローとは、株主価値を増大させるようなプロジェクトを実施するために必要な資金を超える現金のことをいいます。ここに、現金とは文字通りの現金だけでなく、換金しやすい金融資産も含みます。

    会社が投資のための資金を増資に頼らなければならない場合には、経営者は株主の利益に十分配慮して投資を決定しなければならないでしょう。しかし、会社が保有する現金がその会社の投資機会に対して豊富になれば、会社は増資などの外部資金に頼ることなく投資できるようになります。現金が豊富になるにつれて、その使い道に関して経営者の自由裁量の余地は拡大します。そのため、経営者は株主の利益よりも自分自身や株主以外の利害関係者の利益、とくに従業員の利益を優先してその現金を使おうとするようになるかもしれません。

    (略)

    日本の会社、とくに大企業には豊富な現金を保有しようという誘因があります。というのは、大企業は終身雇用という暗黙の契約を正社員との間に結んでいるからです。また、正社員が退職するときには退職金を支払う必要があります。終身雇用という暗黙の契約を守り、退職金を支払うためには、会社は豊富な現金を持っている必要があります。したがって、正社員は会社が現金を配当として株主に支払うことには大反対で、かりに会社が配当を増やそうとするものなら、「自分たちの将来を売るものだ」といって激しく抵抗します。

    (略)

    第一次石油危機後、日本の会社、とくに大企業は投資機会が減ったため、投資機会に比べて多額な現金を保有するようになりました。(略)

    その結果、経営者は豊富な現金を株主の利益にならないような方法で使い始めました。その使い途は、多角化という名目の下に、会社が持っている経営資源とはまったく無関係な分野へ投資することでした。これは、先に紹介したポーターが「日本の会社の多角化は関連のある分野への多角化が多い」という指摘と対立する指摘です。

    pp104-106

    という記述についてです。あくまでケスター説の紹介であって著者自身の説とはされていませんが、他の説が批判的紹介だったり、何らかの留保が付されていることが多い一方で、ケスター説にはなんら留保は付されていないので、著者自身が賛同する見解であると考えて差し支えないでしょう。

    ここで、フリーキャッシュフローは現金+金融資産と定義されていますが、日本の大企業にとってのフリーキャッシュフローの源泉が終身雇用(による年功序列に基づく将来の高額の給与負担)と退職金への備えというのであれば、それを多角化の投資に使ってしまえば、現金+金融資産というフリーキャッシュフローの定義からははずれてしまうので、フリーキャッシュフローは減少することになります。

    とすれば、正社員は多角化投資に反対してフリーキャッシュフローはフリーキャッシュフローとして維持すべきと主張するでしょうし、そうした意向が経営判断に反映されてこそのフリーキャッシュフローの蓄積であるならば、多角化投資は行われないということになってしまいます。つまり、フリーキャッシュフローが蓄積される際と、それが使われる際の説明が整合的ではないのです。

    webmasterはむしろ、含み益の拡大が経営者の自由になる投資余力の増大につながったのではないかと思います。含み損益についての情報開示が適切になされていなければ、株主がその規模を知らない含み益を原資とした‐実際には、含み益込みでの担保評価による銀行借入が多いでしょう‐投資については、十分な監視が行えるはずもありません。お金を貸す銀行は銀行で、担保処分すれば回収可能だと判断すれば、審査や監視も甘くなるのは当然でしょう。

    3点目ですが、

    この欠点を克服するストック・オプションとして、アメリカの企業金融助言会社のベネット・スチュワート(Stewart(1990))は、次のような新型ストック・オプション制度を提案しています。

    いま、ある会社の株式の価格が1000円であるとしましょう。このとき、ストック・オプションの権利行使価格を株価の10%割引の水準、すなわち、990円に設定します。通常のストック・オプションでは、経営者はオプションを無償で獲得できますが、新型ストック・オプションでは、経営者は株価の10%に相当する価格、すなわち10円を支払ってオプションを獲得します。この10円は経営者にとってのオプション獲得のコストになり、オプション料と呼ばれます。

    pp196,197

    という記述についてです。

    重箱の隅で恐縮ですが、1,000円の株価を10%割り引けば900円ですし、オプションプレミアムは100円になるのでは・・・(あるいは、10%でなく1%)。

    03/03/2007 (1:42 pm)

    移行期間中のクリップその2‐経済学博士の就職活動

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    続いてyyasudaさんのエントリです。yyasudaさんはPh.D.取得後の就職活動をなさっていたのですが・・・

    面接に際して、以下のような質問には準備をしておいた方がいいかもしれません。いきなり聞かれると結構答えにくいものです(少なくとも自分はそうでした)。

    「なぜウチに興味があるのか?」
    「ウチの大学について聞きたいことはあるか?」
    「ジョブ・マーケット・ペーパーをどのジャーナルに投稿するつもりか?載りそうか?」
    「オマエの考えた政策(僕の場合はオークション設計)を今すぐ実行すべく政府に売り込めるか?」

    「就職活動回顧録:苦難のインタヴュー」(@ECONO斬り!!2/26付)(webmaster注:強調はwebmasterによります)

    日米のドクター採用事情に詳しいわけではまったくないのですが、経済学の知識が実際の政策にいかに結びつくかということを意識させるというのは、アメリカにおいて強い風潮であって、日本においてはそうでもないのだろうな、という気がします。違いますでしょうか? というのも、日本の経済学者の言動には、そのような思考パターンが感じられない場合が多いものですから・・・。

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