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  • 01/22/2008 (11:59 pm)

    自己診断もの2題‐外交と幕末

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    branchさんのお導きより。

    webmasterの結果はグローバル指向+2にタカ派+1ということで、自己評価を正確に反映しているといってよいでしょう。食料自給率にこだわるなとか日本でやれば高コストの事業は外国でやれとかさんざん書いてきているわけですから・・・。

    #まあ+2でしかないじゃないか、というご指摘はあるでしょうけれども、外国人労働者の受入れに対してさまざまな軋轢の可能性を考えてネガティヴだったのが響いたのかな、と。外国人労働者を受け入れるよりも、海外への生産拠点のシフトの方が、同様の効果をより少ない社会的コストで達成できるのではないかと思っています。

    他方、これはbranchさんに試していただきたいな、と。

    webmasterは岩倉具視でした。どのようなタイプかといえば、

    目的のためには手段を選ばないあなたは、ひょうひょうと大仕事を成し遂げて行くでしょう。常に客観的で冷静。この性格は人間関係にも顕著に現れ、自分にとって必要とあらば厚い信頼を寄せますが、一度必要ないと判断したら、今までの付き合いが嘘のように相手を切り離します。客観的なのはいいことですが、人から信用されなくならないように注意が必要です。

    だそうで、webmasterの個人的知り合いの方々は、webmasterにとっての必要性を維持すべくご尽力いただきたく(笑)。

    ちなみに全タイプを挙げれば、井伊直弼・板垣退助・伊藤博文・岩倉具視・大久保利通・勝海舟・桂小五郎・西郷隆盛・斉藤一・坂本龍馬・佐久間象山・芹澤鴨・徳川慶喜・土方歳三・吉田松陰・近藤勇・岩崎弥太郎・中岡慎太郎・岡田似蔵・伊東甲子太郎とのこと。個人的には大久保利通狙いだったわけですが、坂本龍馬のようなwebmasterにはまったく似つかわしくない者にならず、よかったのかな?

    01/21/2008 (11:59 pm)

    部分的核実験禁止条約の調印年

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     大手予備校「河合塾」(名古屋市)は21日、19日に行われた大学入試センター試験の「世界史A」で、不適切な出題があるとして、大学入試センターに質問書を送付した。同センターでは今後、世界史担当者らで内容を検討する。

     河合塾によると、この問題は「原子力発電や核実験」について述べた四つの文から正しい選択肢を一つ選ぶもの。このうち、「日本とアメリカ合衆国は、1963年に部分的核実験停止(禁止)条約に調印した」という選択肢は正解ではないとされた。

     しかし、河合塾は、「世界史年表」(岩波書店)と「世界史大年表」(山川出版社)に、63年に日米とも調印したという記述があると指摘、選択肢の中に正解が二つあるとしている。

    読売「「世界史Aに不適切出題」センター試験で河合塾が質問書」

    河合塾もなんで岩波や山川の記述を元に指摘するのやら・・・このぐらい、調べればわかるでしょうに。

    というわけで、同条約の国会審議を見てみます。

    ○議長(重宗雄三君) これより本日の会議を開きます。

     日程第一、大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験に禁止する条約の締結について承認を求めるの件(衆議院送付)を議題といたします。

     まず、委員長の報告を求めます。外務委員長黒川武雄君。

    (略)

    ○黒川武雄君 ただいま議題となりました条約は、核実験停止に関する米英ソ三国間の、四年有余に及ぶ交渉の結果、昨年八月署名されたものであります。

     条約は、すべての国に開放され、わが国をはじめ百九カ国が署名し、米英ソ三国の批准により、十月に発効を見たのであります。

    (略)

    ○議長(重宗雄三君) 投票の結果を報告いたします。

      投票総数    百五十四票
      白色票     百五十一票
      青色票        三票

     よって本件は承認することに決しました。(拍手)

    参議院本会議(1964(昭和39)年5月25日)

    というわけですから、

    • 1963年署名(=調印)
    • 1964年批准(=国会承認)

    という事実関係となり、河合塾の指摘の方が正しいのです。出題者は、おそらくは署名と批准とを取り違えたのでしょう。

    01/13/2008 (11:59 pm)

    「総量規制」の経緯

    Filed under: policymaking, government, history ::

    昨日、CXにて放映された「バブルへGO!!」においては、いわゆる総量規制通達が重要な位置を占めていたわけですが、まあ××のために、というのはご愛嬌としても(ネタばれ防止のため伏字にしてます)、実際にどのような状況であのようなものが導入されたのか、当時のデータとしてネットで収集可能なものとして、国会会議録から集めてみました。国会会議録検索システムを使って探したので、検索語の不適切さ等からもっと的確な発言を探し漏らしている可能性はありますので、その点にはご留意をいただければ。

    まずは1990(平成2)年3月27日の通達発出前のものから。最初に土地関連融資の伸び率に着目した応答が行われたのは、1986年まで遡ります。

    ○刈田貞子君 それから、土地高騰を招いている原因として地上げ屋というような存在が強引な土地の買い占めを行っていくというような事柄もいろいろ出ておるようでございますけれども、その裏にやはり民間金融機関等の不動産業種への異常な貸し付けというのは、これは私、否めない事実なんですね。これも私は四月の、先ほどの申し上げました委員会におきまして御指摘申し上げておるわけです。マネーゲーム的に土地を一生懸命買い占めておると、これを今規制しておかないと大変ですよということを私は申し上げておりまして、当時日銀の調査で、私が調べたところでは不動産業者への貸付残高、たしか二三・一というふうに一月から二月の間のデータで御指摘申し上げた。一般企業への貸し付けは一〇・三なんです。それが二三・幾らだったわけ、それで私はこれは異常ですよと申し上げておいた。そしたらその後日銀の調査では四月―六月期で何と三一・一に上がってるでしょう、そうですね。そして七月―九月には三〇・九にはなっているけれども、私申し上げておいたとおりこれは四月に大蔵さんに依頼して指導してくれと銀行局さんに言ったんでしょう。だけどその指導が一向に功を奏してないわけですね。これは私はまことに遺憾な事情だと思う。大蔵省さん見えてますね、なぜこの効用が発揮できなかったんでしょう、通達の。

    ○説明員(中平幸典君) 金融機関の融資の問題でございますけれども、金融機関がどういうところに融資をするかという問題につきましては、基本的には各金融機関の自主的な判断に基づくものであるというふうに考えておりますけれども、金融機関は公共的な使命を有しておるわけでございまして、このことを十分に自覚をしてその融資に当たりまして社会的な批判を招くことがないように従来から私ども指導を行ってきているところでこざいます。ただいま先生の御指摘もございましたように、国土庁からの御要請もございまして本年の四月に金融機関に対して通達を発出いたしまして、投機的な土地取引を助長することのないように指導を行ったところでございます。

     ただいま先生御指摘のように金融機関の土地融資、特に今先生がおっしゃいましたのは不動産業向けの貸し出し残高の伸び率につきまして非常に高い伸び率ではないか、こういう御指摘でございます。先生の御指摘になりました数字にもございましたように、九月末のところで前年に比較をいたしまして三〇・九%伸びております。これは八月末の三四・一というのから比べますと若干数字は下がっておりますけれども、依然として高いということは御指摘のとおりでございます。

     今回の通達は、今申し上げましたとおり投機的な土地取引を助長するようなことのないように適切な対処をしてくださいと、こういうことでございまして、金融機関の土地関連融資その額そのものを抑制しようとするものではございません。土地に関連する金融機関の融資にも社会的に有用なものがあることが通例であることは御承知のとおりでございます。したがってその融資額が顕著に減少してないということをとって、直ちに通達の趣旨が生かされていないのだということにはならないと思いますけれども、いずれにいたしましても、最初に申し上げましたとおり金融機関の土地融資につきましては、今後とも国土庁等と緊密な連絡をとりまして通達の趣旨が徹底するように私どもとしても指導に努めてまいりたいというふうに考えております。

    参議院・決算委員会(1986年12月12日)(webmaster注:刈田貞子議員は、公明党(当時)所属です)

    ここでは、大蔵省(当時。以下同じ)の担当者は、「金融機関の土地関連融資その額そのものを抑制しようとするものではございません」としており、総量規制的な考えを採ってはいないことを明らかにしています。続いて、総量規制について直接の言及のあったものに進みます。時代は3年ほど下って1989年。

    ○粟屋委員 今、金融の引き締め問題について国土庁長官もお触れになりました。私は、この金融の引き締めを適期にきちんと行うことが地価高騰の抑制につながるのではないかと思っておるところでございます。

     昭和四十七、八年の異常な地価高騰の際も、銀行局長通達を四十八年に出しまして、土地関連融資の増勢、伸び率でございますけれども、これを総融資額の範囲内にとどめるという措置をとったわけでありまして、これが大きく効果を発揮しまして、潮の引くように地価鎮静に至ったのではないかなと思っておるわけであります。ただ、金融政策は土地ばかり見詰めておるわけにはいかないこともよく承知をしております。当時の好不況の問題もありましょうし、また金融政策独自のお考えもある。これは私もよく理解をできるわけでございますが、やはり時宜を得て的確にやっていただくこと、これは必要ではないかなと思っております。

     今般も銀行局長通達を三度にわたってお出しをいただいておるようでございまして、最初は、土地関連融資が社会的な批判を招かないように配慮をすべしということであったようでありますが、六十一年の十二月になると、投機的土地取引の融資については厳に慎むこと。また六十二年十月には、閣議決定の緊急土地対策要綱を受けて具体的な指示をされております。特に、監視区域内においては、勧告をしないという不勧告の通知があった場合あるいは一定期間内に判断が下されない、そういうような場合には融資をしてもいいがそれ以外は慎むとか、また、実需を対象として融資をすべきであって、融資対象土地の利用計画、建設計画をきちんと明らかにした上でやれ、こういうような通達もお出しになっているようであります。

     私は、そのときどきに適切な措置をおとりになったと思いますけれども、やはり上がり切ったところでそういう措置をとってもこれは余り効果が出ない、やはり上がらんとするときに、異常な事態となろうとするときにそれを事前にきちんとつかまえた上で、早期に的確にやっていただくことが必要ではないかと思っておるところでございます。大蔵省のおとりになった措置は私は評価いたしますけれども、今の私の見解につきまして大蔵大臣からお答えをいただければと思います。

    衆議院・予算委員会(1989年10月13日)(webmastr注:粟屋委員は、自民党所属の粟屋敏信議員)

    この「土地関連融資の増勢、伸び率でございますけれども、これを総融資額の範囲内にとどめるという措置」とは、後の総量規制の内容そのものですが、この発言からわかることは、

    • 総量規制は列島改造論による地価高騰時に講じられた措置であり、当時においてはその存在を記憶している人々が少なからずいた、
    • 総量規制に先立って大蔵省は重ねて土地関連融資抑制策を講じてきており、総量規制において急ブレーキを踏んだわけでは必ずしもない、

    ということでしょう。

    続いて、当時の大蔵省を巡る状況がもっともよく表れているいるとwebmasterが思うものを。結構長いのですが、お許しいただければ。

    ○村沢牧君 基本法には「土地は、投機的取引の対象とされてはならない。」、投機的取引の抑制を規定しています。

     今日まで異常な土地騰貴をもたらした元凶は投機的取引にあったことは国民だれしも知っておることです。投機的取引の背景には金融機関の不動産関連融資がある。銀行が地価の高騰を助長してきた面もある。日銀の澄田総裁は、かりそめにも金融機関の融資活動で土地の騰貴をもたらし、インフレ心理をあおったり、国民生活を不安定にさせてはならないと金融機関に警告を連発しておったのです。私も同感であります。大蔵省銀行局長の見解を求めます。

    ○政府委員(土田正顕君) 金融機関の土地関連融資につきましては、かねてから通達の発出、特別ヒアリングの実施等を通じまして、投機的土地取引等に係る融資を排除するように厳正に指導してまいったところでございます。

     その結果、金融機関の不動産向け融資の残高の伸び率は、特別ヒアリング実施後の六十二年度上半期以降基調として大幅に減少してきていると考えております。

     ただ近時、地方都市を中心に地価上昇が続いている状況にかんがみまして、国土庁のとられます措置と平仄を合わせ、大蔵省としても投機的土地取引等に係る融資を厳に排除するという従来の通達の趣旨をさらに徹底させるとともに、これは簡略にいたしますが、諸般のいろいろな措置を講じておるわけでございます。

     ただ、ここで一つ申し添えたいと存じますのは、不動産業向けの融資の数字などを私どもは参考にしているわけではございますけれども、土地関連融資のすべてが問題であるということではございませんので、住宅、民活関連、その他の内需に必要な資金、それの円滑な供給はこれは確保してまいる必要があるわけでございます。しかし他方、投機的な土地取引等に係る不適切な融資は、これは厳しく排除するという必要があるわけでございます。

     そこで、このようなところから見まして、なかなか特定の統計の数量のみをもって成績を評価するということは難しいわけでございまして、そこのところは私どもが従来からやっておりますようなきめの細かい特別ヒアリングとか金融検査とか、そういう個別のチェックが必要となるというふうに考えております。

     このような点に十分留意いたしまして、今後とも私ども一連の措置を通じまして、投機的土地取引等に係る融資が厳に排除されるように強力に指導してまいる所存でございます。

    ○村沢牧君 金融機関に対する大蔵省の指導については、もう何回もここでお聞きをいたしました。今局長からまた改めてお聞きをしたところでありますけれども、しかし大蔵省の担当課長は、本委員会で、銀行行政として考えられるあらゆる手段を尽くしているというふうに答弁をしておるのであります。局長、今までやってきた手段が、大蔵省としてはもうこれが最高のものだというふうにお考えになっていらっしゃるのかどうか。基本法が制定されることを契機にいたしまして、過剰な土地関連融資を抑制する政策を大蔵省ももっと強化すべきではないかと思いますが、どうですか。

    ○政府委員(土田正顕君) (略)

     そのような措置の前進を図っていきますのが現在のところでは最善の対応と考えております。

    ○村沢牧君 石井国土庁長官は、本委員会で我が党の山本理事の質問に対して、地価高騰の要因とされている金融機関の土地関連融資の拡大について、土地基本法の成立を前提に土地関連融資残高の多いところから銀行名を公表することが必要である。また、不適当な融資には罰則を含めた規定をつくってもよいではないか。こういう決意を込めた答弁をしておるのであります。

    (略)

    ○国務大臣(石井一君) 私は弁解をしたり弁護をしたりするつもりはございません。ただ、村沢先生、私は前回の答弁で、土地がこれ以上暴騰を続け、また不動産関連の融資がこれ以上額をどんどんとふやすというようなことになれば、公表もするべきであり罰則も加えるべきである、こういう趣旨の答弁をいたしたわけでございます。前段は一つあったということは事実でございますが、ところが新聞にも報道されました。大蔵省の方からもおたくの長官はあんまり元気よくやるなと言うて後ろからやってきたのも、私は直接聞いておりませんが、私のところへ来ておりませんけれども、事実でございます。

     しかし私は、なぜこの公表ができないのかという問題をも追及いたしたわけでございます。ただいま局長の答弁にもございましたが、中には適正な融資もある、不適正な融資もある。この区別も非常に難しい。また、額だけで順番を決めても、それを専門的にやっておる、そこに重点を置いておるバンクもあれば、そうでないものもある。そしてさらに、大手とか地方ぐらいまでは手が届くのですが、銀行局自体の届かぬところで一番反社会的行為が行われておる。このようないろいろ立場上の問題もあるようでございます。

     しかし私は、あの発言一言で、銀行に対しましても相当なアナウンス効果は出ておると思います。それに甘んじてはおりません。今後必要であれば大蔵大臣と直接直談判をいたしまして、銀行局長はこのように申しておりますが、さらに状態が悪くなれば当然やるべきであるし、銀行というのはやっぱり社会的信用ということを最も重視しておりますだけに、我々から見れば公表一回ぐらいですよ……

    参議院・土地問題等に関する特別委員会(1989年12月8日)(webmaster注:村沢牧議員は、日本社会党(当時)所属です)

    この応答からわかるのは、

    • 大蔵省は総量規制導入の約4ヶ月前であっても「現在のところでは最善の対応と考えております」と答弁しており、総量規制を含む新たな規制の導入には後ろ向きだったこと(国土庁の事務方に対して牽制するほどに)。
    • 他方で石井国土庁長官(当時。以下同じ)が個別銀行名の公表や罰則制定(!)といった新たな規制の導入の必要性を訴えていること。

    です。当時のマスメディアの論調の裏取りは困難ですが、急速な金利引上げを主導した三重野日銀総裁(当時)が「平成の鬼平」と誉めそやされたこと等に照らせば、石井国土庁長官の側に世論の支持があったことは想像に難くないでしょう。

    加えて、国務大臣である国土庁長官の発言がある以上、それに対してゼロ回答、というのは官僚としては採り難い選択肢です。というのも、もちろん他の大臣の発言を公式に蹴飛ばすには官僚の側も自分の大臣に上げる必要があるのですが、となれば大臣同士が意見を異にすることとなり、閣内不一致を引き起こしてしまうからです。閣内不一致となれば、大臣の辞職、ひいては内閣の信任問題にもつながりかねませんが、そのような事態の引き金を引く度胸は、官僚にはありません(例外的な者の存在の可能性は認めるにせよ)。

    結局のところ、芹沢局長=土田銀行局長(当時)が「バブルへGO!!」で描かれたような傲岸不遜な官僚であれば、むしろ世論や石井長官の意見にも背を向けて、我こそが正しいと総量規制を否定し続けることができたことでしょう。彼が世論を気にし、他の大臣の発言にも何らかの形で応えなければと考えるありがちな官僚だったからこそ、総量規制は導入されたのです。

    01/09/2008 (4:23 am)

    御前会議の実情?

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    昨年最後のエントリにおいて、安倍前総理について日本の総理大臣として、あのような辞め方は空前と書いたところ、

    辞める瞬間を言えばその通りである一方で、その直前からの過程を追えば、平沼騏一郎や近衛文麿が比肩しうるのではとも思うのですが、いかがでしょうか。

    とのコメントを宮嶋陽人さんからいただきました。奇しくも、第三次近衛内閣の辞任直前の状況について、次のような当を得たものと考えられるレスが2ちゃん軍板にてありましたので、紹介させていただきます。該当日とされる10/6に開催されたのは、陸海軍部局長会議であって御前会議ではないようにも思うのですが、それはさておき。

    939 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/01/07(月) 23:00:09 ID:???

    機密日誌とか資料を読んでてもそれぞれ滅茶苦茶で訳がわからん。纏めると大体こんな感じだな。

    [10月6日午前会議〜]

    東條陸相
    「外交交渉が必ず成功する確信があるなら戦争準備は止めても宜しい」
    (負け戦なんかやりたくねーんだよ。お前らが断言してくれりゃ辞めれるんだから言っちゃえよ)
    豊田外相
    「交渉の中心は支那撤兵問題である。これが解決するなら交渉は纏まるが陸軍の考えは如何」
    (おまえらが引くとさえ言ってくれりゃ戦争なんかすぐにでも収まるんだよ。邪魔してるのはお前らだ)
    東條陸相
    「総理は既に支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだからせめて駐兵ぐらい当然である」
    (陸軍からハイソウデスと言えるわっきゃねーだろ。戦争すりゃ国が負けるだけだが、言えば『俺が』殺されるっつーの)
    陸軍武藤軍務局長
    「海軍は和戦について総理一任と言っているが、総理の裁断だけでは陸軍部内は抑えられない。然し海軍が戦争を欲せずと公式に陸軍にいってくれるなら陸軍としては部内を抑えやすいので、そう海軍側にし向けてほしい」
    (お前らが一言『アメリカ相手に戦争やっても勝てません』と言ってくれさえすれば、ビビリの東條でも陸軍を抑えられるんだから、ちったあ空気読め。このKY集団が)
    海軍岡軍務局長
    「海軍としては首相の裁断に一任というのが精一杯である」
    (そんなことを海軍から言い出せる筈ねーだろ。勝てない海軍には予算は不要であるって、財布握った小姑みたいな顔して東條が喜んで独り占めするに決まってるんだから。海軍が消えて陸軍と国だけ残っても意味ねーんだよ。ボケッ!)

    940 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/01/07(月) 23:04:12 ID:???

    >>939

    [続き]

    東條陸相
    「海軍大臣は戦争を欲しないようであるが、それなら何故自分にはっきり言ってくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば自分としても考えなければならない。しかるに海軍大臣は全責任を総理に負わせているが、これはまことに遺憾である。海軍の胆が決まらなければ9月6日の御前会議は根本的に覆るのだから、この際総辞職してもう一度案を練り直す以外ない!」
    (ごちゃごちゃ言っても最後に海軍はイモ引くつもりなら、支那で引く分をこのドサグサに陸軍の勢力を広げとくチャンスだな。だいたい俺は煮え切らん近衛が大嫌いなんだし、この際徹底的にイジメちゃる。どうせ責任取るのは俺じゃないしな)
    近衛首相
    「……諸君の意見は承った。ことここに至り統帥部との意見の相違は埋めがたく、内閣としては辞職を以って能力のある者に席を譲ることで責任を全うするしか道はない」
    (あーもー、なんで俺にばっかり振るんだよ。アメリカとの前に、陸軍と海軍との間で戦争を始めちゃってるじゃねーかよ! 俺はもうしらん)
    東条英機
    「(総辞職、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!)」
    天皇陛下
    「東條陸相においては首相を兼務し、9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考研を加うることを要す」
    (そんなにごちゃごちゃいうならさ、東條、お前が首相もやって纏めろ)
    東条英機
    「(キター!って、俺にかよっ!)」

    で、gdgd。
    こりゃ、勝てんわ。

    「ハルノート受諾なら、日本はどうなっていたのか。2」スレ・レス943、944(webmaster注:dl要素を用いて整形してあります)

    12/16/2007 (11:59 pm)

    イスラム世界の没落

    Filed under: history ::

    標記の件、時間ないので長らくほったらかしにしていた僕の疑問の一つなわけですが、たまたまtemjinusさんのところで興味深い記事を発見。多少表記を変えて引用させてもらいます。

    ガーナ帝国、マリ帝国の発展を支えたスーダン金がイスラム諸国の金貨鋳造国の原料となっていた。13世紀末にはジェノヴァ人が、また他の欧州諸国は15世紀半ばに、この黄金を源泉において捕捉しようと試みた。ポルトガルがアフリカ西岸を着々と踏査したのはこのためである。ポルトガルは特にギニアにおいて南米のそれには及ばないものも、かなりの量の金を発見する。しかしながらギニアの金の産出量は1520年をもって下降する。

    スーダン金がイスラム諸国へ向かわず、西欧へ向かったために、15世紀からイスラム諸国は財政危機を経験することになる。

    (略)

    これ、ルネサンスが14世紀頃始まったことと考え合わせると実に興味深いです。イスラム文化圏が失速していったのもやはり金融に原因があるんでしょうか。この視点は、本エントリと同名の某評判の悪い本のように精神論にその因を求めるよりもよほどスジが良いように思えますがどうなんでしょう。ってこれ僕が知らないだけで定説なんですかね。

    「イスラム世界はなぜ没落したか?」svnseeds’ ghoti!12/16付)(webmaster注:原文の注記は略しています)

    まず、産金地を押さえていればというのはシニョレッジ効果でしょうけれども、それがいかほどであったかということはいえるでしょう。マネーサプライに関しては、少なくとも当時において金融政策は存在せず、輸入貨幣が流通しているのであれば問題はないでしょう。まして下記引用のとおりイスラム諸国が金銀複本位制であったとすれば、金貨鋳造が滞ったとしても銀貨で補えばよいわけで(江戸時代の日本のように)、マネーサプライ低下による経済低迷という因果関係はスーダン金の供給量から直ちに導けるものではありません。

    (略)8世紀半ばに成立したアッバース朝の時代になるとディルハム銀貨による銀経済であった旧ササン朝ペルシア領でもディナールが流通するようになり、9世紀には金銀二本位制へと移行した。金の産出地としては、サハラ砂漠の南のガーナ王国や、エジプトの南のヌビア(現在のスーダン)などが挙げられる。ガーナ王国の金を、ムスリム商人が岩塩と交換するサハラ交易が行われていた。またディナールとディルハムの法定換算比率は1ディナール=20ディルハムであったが時代や地域とともに変化していきアッバース朝5代のハールーン=アッラシード時代には1ディナール:22ディルハム、時代により1ディナール=30ディルハムの比率も発生した。

    エジプトのトゥールーン朝でのディナール金貨の純度の高さは有名である。しかし10世紀の中頃から金の供給が減少すると12〜13世紀にはシリア以東ではディナール金貨は打刻されなくなり予算や大きな金額はディルハム銀貨で計算されるようになった。ただ西スーダンの金が供給されていたファーティマ朝やムラービト朝、アイユーブ朝・マムルーク朝では依然15世紀初頭まで高品質のディナール金貨を打刻し地中海交易の中心的役割を担ったが次第にイタリア諸都市の金貨(デュカーティやフィオリーニなど)におされディナール金貨は減退した。1425年にはデュカーティに対抗するためマムルーク朝スルタン・アシュラフ・バルスバーイが新ディナール(アシュラフィー)を打刻したが経済的な盛り返しはできなかった。金貨の敗退によりイスラームの勢力的な敗退も始まる。オスマン帝国時代も決済通貨はやはりイタリアの貨幣であった。

    ディナール - Wikipedia

    では、svnseedsさんの問題提起、「イスラム文化圏が失速していった」理由ですが、Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective(webmaster注:”the full article”には拡張子がありませんが、pdfファイルです)には次のような記述があります。

    There are two schools of thought about the relative performance of Europe and Asia. The mainstream view was clearly expressed by Adam Smith in 1776. He was not a practitioner of political arithmetic but on the basis of the “price of labour” and other evidence, his ordinal ranking from the top downwards was as follows for the 1770s:

    Netherlands
    England
    France
    British North American colonies
    Scotland
    Spain
    Spanish colonies in America
    China
    Bengal (depressed by the East India Company’s plundering)

    This mainstream view is reflected in Landes (1969, p. 13-14) whose overall assessment, like that of Smith, was similar to mine. “Western Europe was already rich before the Industrial Revolution - rich by comparison with other parts of the world of that day. This wealth was the product of centuries of slow accumulation, based in turn on investment, the appropriation of extra-European resources and labour, and substantial technological progress, not only in the production of material goods, but in the organisation and financing of their exchange and distribution … it seems clear that over the near-millennium from the year 1000 to the eighteenth century, income per head rose appreciably - perhaps tripled.”

    (略)

    In spite of its shaky foundations, Bairoch’s assessment has been influential. Braudel (1985, vol. 3 pp. 533-4) acknowledged “the great service Paul Bairoch has rendered to historians” and believed “it is virtually beyond question that Europe was less rich than the worlds it was exploiting, even after the fall of Napoleon”. Andre Gunder Frank (1998, pp. 171 and 284) cites Bairoch and suggests that “around 1800 Europe and the United States, after long lagging behind, suddenly caught up and then overtook Asia economically and politically”. Pomeranz (2000) cites Bairoch more cautiously (p. 16) but his sinophilia drives him to the same conclusion. He suggests (p. 111), there is “little reason to think that West Europeans were more productive than their contemporaries in various other densely populated regions of the Old World prior to 1750 or even 1800.”

    Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective, pp46,47

    ここでは、イスラム圏との対比ではありませんが、西ヨーロッパのアジアに対する経済的優位性についての通説と反対説が紹介されており、興味深いことに、通説では西暦1000年ごろから西ヨーロッパの成長率はアジアのそれを上回ったとされている一方、反対説では19世紀ごろまでアジアが優位であったとされています。つまり、いずれであっても1500年ごろに西ヨーロッパが上回ったわけではない(通説ではより早く、反対説ではより遅く)、ということとなるわけです。

    いずれが正しいかを判断する能力はwebmasterにはありませんが、Maddison自身は通説の側に立ち1000-1500年の一人当たりGDP平均成長率について西ヨーロッパは0.13%/年、その他アジア(日本、中国、インドを除くアジア。イコールイスラム圏ではありませんが、その代替指標として用います)は0.05%/年との推計を示し(Table B-22)、1000年における一人当たりGDP400ドル対450ドルが1500年においては774ドル対565ドルと逆転したことを示した(Table B-21。「ドル」は1990年基準の実質値)上で、次のように述べています。

    Between the years 1000 and 1500, Western Europe’s population grew faster than any other part of the world. Northern countries grew significantly faster than those bordering the Mediterranean. The urban proportion (in terms of towns with more than 10 000 population) rose from zero to 6 per cent, a clear indicator of expansion in manufacturing and commercial activity. Factors making it possible to feed the increased population were an increase in the area of rural settlement, particularly in the Netherlands, Northern Germany and the Baltic coast and the gradual incorporation of technological changes which raised land productivity. The classic analysis of these rural changes is by Lynn White (1962): “…the heavy plough, open fields, the new integration of agriculture and herding, three field rotation, modern horse harness, nailed horseshoes and whipple tree had combined into a total system of agrarian exploitation by the year 1100 to provide a zone of peasant prosperity stretching across Northern Europe from the Atlantic to the Dnieper.” White probably exaggerated the precocity of their impact and the degree of prosperity, but these technical improvements were clearly of fundamental importance. The switch from a two-field to a three-field system also increased food security and reduced the incidence of famine. A growing proportion of agricultural output went as inputs into clothing production (wool), wine and beer (cereals and vines) and fodder crops for an increased horse population. There was a degree of regional specialisation in food production with growing international trade in cereals, live cattle, cheese, fish and wine. Increased trade in salt and the reintroduction of spice imports helped improve the palatability and conservation of meat and fish.

    (略)

    Estimates of what happened to GDP in Europe and the rest of the world over this period are obviously subject to a wide margin of error. Chapter 1 and Appendix B explain the basis for my estimates as transparently as possible. I concluded that there was almost a doubling of West European per capita income from 1000 to 1500 compared with an improvement of about a third in China, less elsewhere in Asia, and some regression in Africa. It seems clear that West European levels of income and productivity were higher than in Asia and Africa at the end of the period whereas they had been lower in the year 1000. As far as West Asia and Egypt are concerned, this view seems to be shared by specialists in Muslim history, e.g. Abulafiah (1987) and Abu-Lughod (1989); for China/West European performance the evidence for this conclusion is examined in detail in Maddison (1998a).

    Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective, pp51,52

    要するに、人口増加によって都市集住=手工業・商業の発展と殖民・開墾=都市住民を支える農業生産の拡大(これには農業技術の発展や三圃制の普及も手伝っています)が成し遂げられたことが西ヨーロッパ経済発展の謎解きということとなりますが、このMaddisonの説が正しいのであれば、スーダン金の問題は、まったく影響がなかったわけではないかもしれませんが、あくまでマイナーな要素に過ぎなかったということとなるでしょう。幸いなことにイスラムとヨーロッパの比較については、上記引用において、

    • Abulafia, D., 1987, “Asia, Africa and the Trade of Medieval Europe”, in Postan et al, (eds), vol.II, pp402-73
    • Abu-Lughod, J.L., 1989, Before European Hegemony: The World System AD 1250-1350, Oxford University Press, Oxford

    という2つの文献が挙げられていますので、これを精読すれば答えが見つかるのではないかと思います。webmasterには無理ですが・・・。

    #2つめについては、ジャネット・L. アブー=ルゴド「ヨーロッパ覇権以前」という邦訳が出ています。中山さんにご教示いただきました。ありがとうございました。(2008/1/6追記)

    さて、実際のそれが1500年よりもはるか以前かはるか以後かはさておき、1500年ごろから「イスラム文化圏が失速していった」ように見えるのは、管見ではオスマントルコの盛衰の影響ということとなります。1453年のコンスタンティノープル攻略あたりから急速に勢力を強め、1529年の第1次ウィーン包囲や1538年のプレヴェザ海戦のあたりが絶頂期、そして1571年のレパント海戦から1683年の第2次ウィーン包囲を経ての長い長い下り坂、というオスマントルコの歴史は、「イスラム文化圏が失速していった」ことを象徴しているようです。この期間のズレの鍵は、軍事革命ではないでしょうか。

    マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン(叔父ヨハン6世の子)とともに行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にも、その動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また、訓練を通じて、本来傭兵の寄せ集めでしかない軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。

    ちなみにこれらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(「武器の操作、火縄銃・マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す」、未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。

    さらにマウリッツは、パイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦闘が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、三兵戦術の基盤を築いたことでも知られている。マウリッツが生きている間は、それでも名将アンブロジオ・スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダが当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たせた背景に、彼の貢献があることは明白である。

    またマウリッツは将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、のちにバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ・アドルフに仕えるものもいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。

    マウリッツ(オラニエ公) - Wikipedia)

    通説の立場からは、オスマントルコがヨーロッパの経済的優位に対抗し得たのはその軍事力あってのことで、軍事革命によって軍事においても優位性が失われてしまったものと説明が可能でしょう。反対説の立場からは、オスマントルコが経済的優位性を維持していたにもかかわらず劣勢に立たざるを得なかったのは、軍事革命後のヨーロッパには軍事的に対抗不可能だったからと説明が可能でしょう。

    12/10/2007 (11:59 pm)

    戦国時代の合戦の実際

    Filed under: history ::

     どうも今年の大河ドラマは、平時の演出のおもしろさと比べて、戦闘シーンの見劣りが目立つようだ。それはなぜか。戦国有数と謳われる名将同士の激突であるのに、戦闘開始後の両将(及びその幕僚)が指揮で見せ場を作っていないからである。単なる力責め、戦略を考えない個々の武将の行動、信玄は戦場では全軍を掌握しているととても思えない。久々に登場した板垣信方もそうだったが、武田の家臣たちは、忠誠心さえ持っていれば、統一した動きになっていなくても構わないと思っているかのようだ。

     直接の比較対象にはならぬが、銀河英雄伝説の戦闘シーンがすばらしいのは、双方の司令部がしっかり機能し、たとえ敗北しても最後まで一丸となって行動している場面が多いからである。ヤンもラインハルトも、戦場での指揮能力が極めて高く、また、部下の提督たちは(たとえ戦死することになっても)司令部の戦略、戦術を信じて整然と行動する。だからこその激闘になり、だからこそ個々人が輝いて見えるのである。

    「死闘川中島」(@Francis Drake Briefing Room12/9付)

    「直接の比較対象にはならぬ」とroi_dantonさんはお書きなので、あくまでドラマの演出についてのご指摘だとは思うのですが、「単なる力責め、戦略を考えない個々の武将の行動、信玄は戦場では全軍を掌握しているととても思えない」「武田の家臣たちは、忠誠心さえ持っていれば、統一した動きになっていなくても構わないと思っているかのようだ」というのは、合戦の実際をむしろ的確に表現しているのでは、という気がwebmasterにはします。

    #webmasterは実は「風林火山」を観ていないので、偉そうなことはいえた義理ではないのですが。

    当然ながら、戦国時代においては、伝令を出す以外に連絡を取る手段はなく、最前線の模様を本陣がリアルタイムで把握できるものではありません。同様に、命令を発したところで、現場に届き実行に移されるまでには相当のタイムラグが生じます。また、偵察機による状況把握もあり得ないので、ある伝令がもたらした情報はあくまで局地的なものに過ぎず、たとえば右翼が危ないという情報があっても、実はもっと左翼が危ないのであれば、右翼への予備戦力投入は命取りになりかねません。結局のところ、

    • 既に変わってしまった状況、あるいは局地的な状況に基づく命令を出すリスク、
    • 出た段階では適切だった命令が、届き実行されるまでの間に不適切なものとなってしまうリスク、
    • 命令の到着に時間的な差や、あるいは届かない部隊があることにより、最前線の連携が乱れるリスク、

    といったことを考えれば、戦闘が始まってしまった後は、本陣が主体的に出せる命令は、前進・後退といった大まかなもの(予備戦力の投入を含む)であったはずです。臨機応変の戦場機動は、侍大将クラスが現場の雰囲気に応じて行うものがほとんどであり、それ以上の単位では戦闘開始前の軍議において定まったとおりに動くことしかできなかったのではないか、というのがwebmasterの推測です。

    #そもそも陣形の崩れは戦線の崩壊につながるおそれが多分にありますし、その場での戦闘や単純な前進命令に比べ、戦闘正面の転換を含む複雑な戦術機動は陣形の崩れを招く可能性が非常に高くなります。

    加えて、この川中島の合戦は、その推移が大河ドラマの下敷きとなった甲陽軍鑑等の軍記物が描くとおりかどうかは措くとしても、その高い損耗率から、両軍主力がまともにぶつかり合った会戦であることは容易に想像がつきます。軍記物のとおり(武田側から見て)遭遇戦であったならば、まずは最前線の侍大将が混乱を立て直して組織的戦闘を可能とするのが精一杯であり、本陣からあれこれ言われたところで対応できるはずもありません(し、本陣もそれは十分わかっているでしょうから、余計な命令を出して混乱の種を蒔くようなこともしないでしょう)。

    となれば、信玄は全体を把握できぬまま(軍記物の推移を前提とすれば)強襲部隊が戻ってくるまで持ち場を死守せよと言うしかないでしょうし、各侍大将は目前の上杉勢を押し返すのがせいぜいで全体の戦術など知ったことか、というのが実態だったのではないでしょうか。信玄の華麗なる戦闘指揮がないことこそ、きちんと時代考証がなされている可能性を示すものだとwebmasterは思うのですが。本陣の有能さを描くのであれば、むしろ戦闘開始前においてどれだけの備えをしているのか、そこの部分なのではないでしょうか。

    #とはいっても、史実に忠実であろうとすれば、かえってドラマ性が弱くなることもありがちですから、ドラマの脚本・演出としては、roi_dantonさんのご指摘が当たっているとwebmasterも思います。

    09/21/2007 (6:40 am)

    「高根の花」でも問題ない?

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    ネットには掲載されていないのですが、基準地価に関する毎日新聞の記事の見出しにおいて、「職住近接 高根の花」というものがありました。もちろん本来は「高嶺の花」で、「嶺」が常用漢字でないがゆえの代用とされているものですが、意味が全く違うではないか、と違和感を持ちました。

    たかね 0 【高▼嶺/高根】
    高い峰。高い山のいただき。
    「富士の―」

    ――の花
    見えてはいるが手の届かないもの。とうてい自分のものにはできないもの。
    「所詮彼女は―」

    たかね 0 【高▼嶺/高根】 - goo 辞書

    高い山のいただきに見える花だからこそ意味を成すのであって、そもそも高い根って何? ということとなり、読みが同じならいいというものではないだろう、代用するなら「峰」ではないか、と思ったのです。

    各紙とも同じ代用をしています

    しかし、話はそうは単純ではありませんでした。「嶺」の「ね」とは何かを探ると、次のとおりです。

    みね 2 【峰/▼嶺】
    〔「み(御)」は接頭語〕
    (1)山のひときわ高くなった所。山のいただき。頂上。山頂。ね。
    「―から吹きおろす風」

    みね 2 【峰/▼嶺】 - goo 辞書

    ね 0 【▼嶺/▽峰】
    山の頂。みね。
    「―に立つ雲を見つつ偲はせ/万葉 3515」

    ね 0 【▼嶺/▽峰】 - goo 辞書

    つまりはもともと「ね」という大和言葉があり、それに接頭語「み」がついて「みね」となり、それに「峰(峯)」や「嶺」という漢字が当てられていることとなります。「みね」に「根」を当てるのは論外であるとしても、「ね」という大和言葉に「根」という漢字を当て、それが支那語としての「根」を超えて大和言葉の「ね」全体を表すものとして用いられていると考えられるならば、必ずしも誤用ではないと考えられるでしょう。

    では、そのような用法は存在したのでしょうか?

    島根県は、県成立時の県庁所在地であった郡名「島根郡(現在の松江市)」に由来する。

    「島根」は、『藤原宮木簡』に「嶋根郡」とあり、『和名抄』に「島根郡」の名が見られる。

    「島根」の地名は、島根半島の地形に由来し、「しまね(島嶺)」で島状の嶺となっていることからか、「しま」も「ね」も「高くなった所」の意味と考えられる。

    島根県 - 地名由来辞典

    比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。

    松尾芭蕉「幻住庵の記」

    帝、紫微の宮に坐し群仙を會して曰く東方は成果の鍾まるところ坤輿の中樞なりそれ太山を作りて永く萬邦の鎭となすべしと、一夜に大地を擘して此の不二の高根を成る、史あるの前幾千萬載斯の山既に秀でゝ靈あり、惟れ考靈帝の御宇、東海の氣漸く清明に始めて斯の山を中霄に見る、頂は分れて八峯を成しその雪を戴くが為めに宛も玉芙蓉の如し、爾來ニ千年、仰げばいや高く望めばいや尊し、歌仙も其の高きさまを歌ひ盡すこと能はず畫聖も其の尊き形を畫き盡すこと能はず、岳神は容易に秘奥の符を示さずして、唯だ人の獨詣して冥契を得るに任せ、三千年にして一人之を歌ふものあり五千年にして一人之を畫くものあるを俟つ

    遲塚麗水「登山記」

    いずれも当然ながら常用(当用)漢字制定前の用例ですから、冒頭の文脈でいう代用がなされた結果ではありません。もちろん表意文字である漢字を用いる以上意味の合致する「高嶺」を用いることが望ましいにせよ、「高根」もまた日本語における漢字表記としては、誤用であるとはいえないというのが実態ということになるのでしょう。

    09/21/2007 (6:37 am)

    世界歴史地図

    Filed under: history ::

    という面白いものを見つけました。世界史地図を見るのが好きだった人ならば、感激すること請け合いです。その発展版として作成中の、

    にも期待したいです。

    08/21/2007 (11:59 pm)

    飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」

    Filed under: economics, book, history ::

    ありがたいことに当サイトをご紹介いただいております(p141)ので、お礼を兼ねまして(笑)。

    高校〜大学(教養)時代に読みたかったなぁ、としみじみ思います。というのも、昔から歴史は好きだったのですが、となると高校教科書の記述では物足りなくなり、もっと深い話を知りたいと思いつつ、なかなかいい本にめぐり合えず、やきもきしたことがあったから。大学時代にヨーロッパ政治史の講義にはまったのも同じ文脈で、これぞ大学、と感激したものです。

    本書はその経済学版で、近世ヨーロッパからヴィクトリア期のデフレ、幕末インフレに昭和恐慌といった題材を、マネーの理論を軸に明快に分析しており、高校教科書の世界史・日本史における通り一遍の記述で飽き足らぬ好奇心を、存分に満たしてくれます。内容の充実に平易な表現が両立しているので、高校生でも十分読み通せるはず。今の学生はこのような本を手に取ることができ、本当にうらやましいかぎりです。

    なお、飯田先生にご紹介いただいたのは管子について当サイトがとりあげたことがあるとの点においてですが、実はその部分は過去ログ倉庫、つまりは別サイトになっております。もしご関心の向きがいらっしゃいましたら、下記エントリをご参照いただければ幸いです。

    #当サイトを参考にしていただいたと記されていますが、webmasterなんぞの素人エントリより、田中秀臣先生、BJ38さん、すりらんかさんのコメントこそご参考になったであろうと確信いたしております。

    08/05/2007 (11:51 pm)

    「史上初」はゴリアテでは?

    Filed under: history ::

    米軍がイラクで武装ロボット「Special Weapons Observation Remote Reconnaissance Direct Action System(SWORDS)」を4月から実戦配備していたことが4日までに米専門誌「National Defense」の報道により明らかとなった。

     武装したロボットが戦闘地域で実戦配備されるのは、今回の事例が史上初の出来事となる。

     今回、イラクで実戦配備されたことが明らかとなたSWORDSは、TALONという名称で開発が進められてきたプラットホームにM249軽機関銃で武装を施したものとなる。SWORDSはロボット本体に装備されたビデオカメラを通して遠隔地からラジオコントロールの要領で操作をすることが可能となっており、これまでに3機のSWORDSがイラクで実戦配備された模様だ。

    TechnoBahn「米軍、史上初 イラクで武装ロボットを実戦配備」

    自律的な戦闘行動等が可能というのであればさておき、オペレータの誘導による動作でよいのであれば・・・

     二次大戦時にドイツで開発使用された兵器で、対パルチザンやレジスタンス、市街戦で苦労したドイツ軍がかなりの期待をして戦場に投入した。用途は野戦築城物(トーチカ)破壊や地雷原突破、市街にて敵の占拠する建物破壊に使われた。形状はリモコンによって目標に到達そして自爆する小型(大型のスーツケース程度の大きさ)戦車でキャタピラで不整地でも8〜20km/hで走行可能で小銃弾や手りゅう弾では破壊出来ないしろものでかなりの効果があったらしい。駆動方法も電気モーター式(Sd.Kfz302)の物とガソリンエンジン(Sd.Kfz303)の物があったし(電気モーター式がパワー不足の為大型バイク用のエンジンを使用した後期型が生産された)操縦も有線式と無線式があり行動半径は900mで、爆弾を100キロを搭載していた。実際ワルシャワ蜂起(注1)にて使用されたがポーランド国内軍から「特別危険で驚異的なドイツ兵器」と恐れられる物だったらしく記録が残っている。(略)このゴリアテ以外にもドイツはこの手の無線&有線誘導車を何種類か製作している。B1(Sd.Kfz300)は地雷清掃用に39〜40年に50両生産、B4(Sd.Kfz301)は重爆薬運搬車で有人&無線操縦可能で多目的に使用された。スプリンガー(Sd.Kfz304)は中型爆薬運搬車で勿論有人&無線操縦可能でケッテンクラートのコンポーネンツを利用して44〜45年に50両生産されている。

    ゴリアテ

    07/13/2007 (11:55 pm)

    岡田斗司夫「「世界征服」は可能か」

    Filed under: economy, entertainment, book, politics, history ::

    古くは「ウルトラマン研究序説」にまでさかのぼることができる、フィクションを題材に現実世界を論じようとするのが本書です。大別すれば2部構成で、世界征服をしようとする場合の組織論と(第1章〜第3章)、世界征服の意義(第4章)が論じられています。

    著者ご自身が「内容が薄い」という人は、薄い内容しか読み取れなかったんだろうしおっしゃっているにもかかわらず、批判的なことを書くのは若干怖気づきもするわけですが(笑)。批判は大まかに言えば2点あって、

    • 事実関係の確認が甘い
    • 世界征服が割に合わないことの理屈に納得ができない

    ということとなります。

    前者については、たとえば次のような記述があります。

    かつて、ローマ帝国は地中海世界を「支配」していました。

    (略)

    ローマ帝国は独裁者によって運営されています。というより、独裁者(ディレクトル)という言葉自体、ローマ帝国の政治システムから生まれた用語です。

    p151(webmaster注:括弧書きは、原文ではルビです)

    世界征服の独裁者を描く本なのですから、この部分は決して枝葉末節ではないとwebmasterは思うのですが、ローマ帝国の「独裁者」は独裁官と訳すのが通例ですし、何よりディレクトルではなくてディクタトルでしょう。ディレクトル=独裁者ということですと、テレビ局のディレクターは独裁者ということになってしまうわけですし(笑)。

    アメリカの南北戦争時に、奴隷制を維持するかどうかで南北の経済力格差が生まれた(pp148-150)なんていうのも、奴隷に購買力がなくても南部はヨーロッパへの輸出で購買力を確保していたとか、南部において奴隷が解放されていたとしても南北の人口格差は十分にあったとか、そういった事実を無視して、奴隷制の存廃のみに経済格差を帰するのはいかがなものかということになります。そもそも北部だって、黒人を白人並みに豊かになれるよう遇していたわけでは決してないわけですし。

    これらは著者の専門分野ではないので仕方がないといえば仕方がないのですが、たとえばルパン三世・カリオストロの城に関して「ゴート札(ふだ)」(p76)(webmaster注:括弧書きは、原文ではルビです)と書かれているのを見てしまうと、webmasterがよく知らない話題についての本書の記述も、どこまで信じてよいものか、迷わざるを得ないというのが正直な感想です。いや、webmasterも本エントリを書くに当たってカリ城を観直してはいないので裏は取っておらず、おぼろげな記憶が頼りではありますが、偽札(にせさつ)なんだから「ゴート札(さつ)」でしょ?

    後者については、本書の(webmasterの整理に基づけば)第2部=第4章に関することとなるわけですが、総括的な記述としては、著者のご主張は次の部分が典型でしょう。

    あなたが世界を征服したとしても、実はそんなに「うまみ」がない、ということになるんです。あなたやあなたの一族、友人たちが「支配者階級」を作っても、その人たちだけのために作られる「贅沢」など、今の自由社会・大衆社会の「金で買える贅沢」に比べれば取るに足りないものなのです。

    たしかに、十八世紀ぐらいまでなら世界征服にも意味があったのかもしれません。国王同士や将軍同士が戦って、勝ったら支配して上流階級の文化を独り占めできた時代なら。

    しかしいまや、世界を征服して「富を独占」することには、意味がなくなってしまいました。富を独占するのではなく、市場を活性化して、みんなが豊かな世界を作ること。それが支配者がもっとも簡単かつ確実に「栄耀栄華」を楽しめる方法なのです。

    p175

    これは、世界征服に意味がないことを示すのではなく、富を独占することに意味がないことを示しているに過ぎないわけで、この理屈が妥当すると仮定しても、世界征服した上で、世界中で「市場を活性化して、みんなが豊かな世界を作る」こととすれば、立派に「『栄耀栄華』を楽しめる」ことになります。第1部では、目的別に世界征服を類型化して論じていたのに、ここにきていきなり世界征服=富の独占とは、残念なことです。

    webmasterの管見では、18世紀以降(実際は17世紀だと思いますが)に世界征服(とまではいかなくとも、大規模な征服事業)が非現実化した理由としては、

    1. 貧しい地域が豊かな地域を征服するからこそ割に合うこと、
    2. 16世紀に、それまでユーラシア大陸において総じて最強の兵科であった騎馬民族軽騎兵に対する火力の優越が確立し(典型例としてはチャルディラーンの戦い、基本的に豊かな地域ほど強いという状況になったこと、

    が挙げられます。1.については、帝国主義華やかりし頃に植民地経営が軒並み赤字であったり、最近では統一ドイツにおいて旧東ドイツ経営がいかに困難であるかとか、イラクでアメリカがどのような目にあっているかをご覧いただければということです。征服には、征服それ自体においても、征服後の経営においても、それなりのコストが必要です。豊かな地域を征服してこそ、そのコストを支払ってなお利益が出るわけで、貧しい地域を征服したところで持ち出しにならざるを得ません。

    2.については、1.で書いたように豊かな地域を征服してこそ利益が出てくるわけですが、貧しい地域が豊かな地域に勝てなければ、前提となる征服そのものが夢物語となってしまいます。16世紀までの間、貧しいにもかかわらず豊かな地域に勝つ、その秘訣が騎馬民族軽騎兵でした。中世において世界中で最も発展した地域であった中国やイスラム世界が何度となく騎馬民族に蹂躙されたのは、軽騎兵が他の兵科に対して軍事上の優越を保っていたからといえます。

    しかし、銃砲の発達によって、この優越は覆されました。銃砲を装備し、その運用を可能とするためには、他の何よりも経済力が必要となり、つまりは豊かな地域ほど強いという夢のない(笑)時代になったわけです。そんな時代において、相対的に軍事的に優位な地域=豊かな地域が征服事業を起こせば、必然的にその対象は自らよりも貧しい地域となってしまいます。つまりは赤字事業となることが運命付けられており、無理を承知で強行しても長続きは不可能であるというのが、現在の状況ではないでしょうか。

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