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  • 01/18/2008 (11:59 pm)

    むしろ”Economy First”であるべき

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     日本音楽著作権協会(JASRAC)や実演家著作隣接権センター(CPRA)など著作権者側の87団体は1月15日、「文化」の重要性を訴え、私的録音録画補償金制度の堅持を求める運動「Culture First」の理念とロゴを発表した。「文化が経済至上主義の犠牲になっている」とし、経済性にとらわれない文化の重要性をアピールしながら、補償金の「適正な見直し」で、文化の担い手に対する経済的な見返りを要求。今後は新ロゴを旗印に、iPodなども補償金制度の対象にするよう求めるなど、政策提言などを行っていく。

    (略)

     CPRA運営委員の椎名和夫さんは「経済・流通至上主義の考え方で、権利者側は既得権者と呼ばれ、流通を阻害している元凶とも言われる。コンテンツは単なる嗜好(しこう)品に過ぎないという考え方があるのも知っている。それが間違っていると言う気はないが、新技術やビジネスが、文化やそれを支えるシステムをき損してはいけない」と訴える。

     「経済至上主義がさまざまな問題につながっている。医療に経済至上主義が進出した結果、病院で問題が起きていると聞くし、地球温暖化も経済至上主義の結果だ。社会の中の『文化』も例外ではない。文化そのものがおろそかにされていることに、強く警鐘を鳴らさなくてはならない」(椎名さん)

    (略)

     Culture Firstは、文化を守るために私的録音録画補償金を守るべき──というのがその主張だ。87団体は「補償金があるからこそ私的なコピーが自由にできる」とした上で、「受け取る補償金の額が激減し、権利者の保護レベルが急激に低下した。危機的状況にある」と訴える。

    ITmedia News「「iPod課金」は「文化を守るため」――権利者団体が「Culture First」発表」

    いみじくも記事において「経済性にとらわれない文化の重要性をアピールしながら・・・文化の担い手に対する経済的な見返りを要求」と書かれていますが、結局ここで87団体が主張していることは、

    • 世の中にフリーランチはない、
    • 人々はインセンティヴに反応する、
    • 均衡価格において総余剰は最大化し、それよりも低価格となって消費者余剰が増加する場合にはそれでは埋め合わせられないほどの生産者余剰の減少が生じている、

    というような経済学の知見にロジカルには適合するもので(現在の補償金の水準が均衡価格よりも高いか低いかといった実証の問題はさておき)、むしろ”Economy First”と呼ぶべきものではないでしょうか。といいますか、このようなロジックにのっとりつつ、現行の補償金水準において総余剰は最大化されていて、補償金の支払いが減るような事態は消費者余剰が増えたとしても総余剰は減少するなんていう実証分析を提示して”Economy First”の理念を掲げたならば、webmasterは一も二もなく彼/女らの賛同者になったことでしょう。

    しかるに実際に唱えられるのは”Culture First”であるというのは、「経済至上主義」(が正確に何を意味するのかwebmaseterには理解不能ですが)という言葉が世間的には否定的に捉えられていることの表れでしょう。マーケティングに立脚した戦略としては正しいのでしょうけれども、理屈としては”Culture First”はかえって自らの立場を苦しくするものでしかありません。

    真に”Culture First”であるならば、「地獄変」の良秀よろしく、他の何にも増して表現行為を優先させてしかるべきです。見返りとしての報酬を求めての表現行為であればそれは”Reward First”に他ならず、見返りが得られようが得られまいが、何かを表現したいとの内的衝動ゆえに文化的所為に走らざるを得ないことこそが”Culture First”のはず。「補償金はゼロであるべき、というのも表現できるだけで幸せなはずで、なぜなら”Culture Firstなんだろう?」と言われて引き下がらざるを得ないような理屈を唱えることには、根本に立ち返ってまでは頭を使っていない浅はかさをwebmasterは感じてしまうのです。

    12/26/2007 (11:59 pm)

    再び薬害C型肝炎問題を論ず。

    Filed under: law ::

      薬害肝炎、救済対象は裁判所が認定…法案概要固まる(読売)

     ここに至るまでの経緯についてはいろいろと思うところもあるのだけれども、軽々に発言するのは好ましくないと思料されるのでとりあえず差し控えるが、法律案の方向性について思ったことを、2点ほどメモ。

     1点目は、国の責任を明記することについて。目的規定の中で明らかにするか、あるいは(議員立法にありがちな)前文を置く形にしてそこで謳う、といったところだろうか。

     2点目は、補償対象となる被害者の認定作業を行う主体を裁判所とすることについて。当初検討したと記事にあるように、政府内に専門委員(会)を設置してその事務を行わせるというのが、発想としては素直。行政が行う給付等について、その基礎となる事実認定の部分を裁判所に行わせるというのは、これまでに類似の制度があっただろうか…。まあ、法律でそう書けばそういう制度ができるということかも知れないが、制度設計の在り方としては興味深く思われるところ。

    続・航海日誌(12/26付)

    前者については、先日それを枕に議論を展開してみましたが、そのものを論ずるとすれば、branchさんがお示しのようなあたりが適当な着地点なのでしょう。真正面から無過失の相手にまで賠償責任を認めてしまえば、先日の議論のような地獄の釜の蓋を開けてしまうことにつながります。既往の法体系の枠内で解決を図るならば、司法判断や政府の和解案によることとなりますが、

     和解協議の中で、政府は20日に、未提訴者も含めた薬害被害者を血液製剤の投与時期で限定して和解金を支払い、残る被害者には30億円を基金活用する「全員救済」方式を提案。被害者全員の「一律救済」を求める原告らは「患者の線引きだ」と反発していた。

    産経「議員立法で「一律救済」表明 薬害肝炎で首相」

    とのことで、それを蹴飛ばしたからこその現状です。

    だからといって無過失責任を前面に出すのも、既存の法体系からは明らかに受け入れ不可能といわざるを得ません(そんなことをすれば、どこまで賠償責任が広がるものやら・・・)。そうした中、前文や目的規定で責任を規定するというのは、実質的には損害賠償であるにもかかわらず法的には損害賠償ではない補償・救済を用いることにより、損害賠償の対象でない者をも法の枠内に取り込むためのいわば方便で、原告の主張とこうした法体系の枠組みがギリギリで共存可能な唯一の解ではないでしょうか。

    後者については、webmasterはあまり気にしていなかったのですが、考え始めると、branchさんのお言葉どおりなかなか興味深い論点が複数あります。さすがはbranchさん、いいところに目をつけていらっしゃいます。主体が裁判所であったとしても、裁判(訴訟)として取り扱うわけではないでしょうから、一般の訴訟法に基づく手続ではなく別の手続を考えなければならないのですが、これがなかなか悩ましくあります。

    現状、裁判でない裁判所の取り扱い事項の一般法としては、非訟事件手続法がありますが、過料など法的には軽めの事象を取り扱うもので、裁判所としてもこれに基づき判断しろといわれても困るでしょうから、おそらくは立法において白地で書いていかざるを得ないものと予想されます。では、どう書いていくか。

    訴訟の枠組みに照らして考えると、まず管轄権をどうするかが難しいところ。裁判所の対応能力を考えれば、知財高裁のように東京のみとしたいでしょうが、全国の患者に東京に出て来いというわけにもいかないでしょうし、かといって第三者委員会のように専担として地方まで出張っていくのも裁判官の負担を考えれば難しく、となれば全国各地で受け入れざる形が無難でしょう。かといって、すべての地方裁判所(まして簡易裁判所)で取り扱う体制を整備することなど不可能でしょうから、webmasterの予想としては各地の高裁管轄とするのでは、というものとなります‐原告からは不評かもしれませんが。

    次の問題は、裁判官の当事者能力です。訴訟となれば原告vs被告や検察vs被告人の対審構造がおなじみですが、認定作業において患者に対置される当事者がいるとも思えず(たとえば政府が反対尋問します、なんてスキームになるはずもなく)、原告の主張を裁判官が聞いて職権認定、という形になるでしょう。裁判官は法律のプロでしかないのですが、そんな裁判官が世のあらゆる争いごとを裁くことができるのは、前記の対審構造を前提に、両当事者がそれぞれの立場でプロの見解を集めてきて、そのいずれがもっともらしいかを判断しさえすればよいとの建前があるからこそです。第三者委員会であれば、メンバーに医者や研究者も入るでしょうから自ら職権認定をするだけの能力もあるでしょうけれども、裁判官にはまず間違いなくそんな能力はありません。このところをどうするのか。

    更なる問題として、上述のとおり裁判官に当事者能力がないとすれば、訴訟においても鑑定人を求めるように、他に専門家を求めるより他に道はありません。しかし、訴訟における鑑定人は、上記の対審構造を前提に反対尋問等でチェックされることにより、一方に偏ったものではないものとして取り扱われます。対審構造がない中で、専門家の証言の中立性・客観性をどのように担保するのか、専門家を呼ぶことで上記問題を解決するとしても、一難去ってまた一難という制度設計となります。

    これらの問題は、仮に内閣提出法案であれば内閣法制局がとことん詰めるのでしょうけれども、何せ本件は議員立法です。議員立法の中には役所が実質的な当事者として携わるものがあるにせよ、本件は経緯を考えれば役所のそうした関与は許されないでしょうから、役所がこっそり内閣法制局に相談する、というわけにも行きません。担当される議員の方は、その方が法律論に詳しければ詳しいほど、これらの問題に悩まされることでしょう・・・。

    12/25/2007 (11:59 pm)

    急がば回れの著作権議論

    Filed under: law, WWW ::

    違法サイトからのダウンロード違法化等については、自らの主張を正義と確信して言い張っているだけではねぇ、といった趣旨のことを書いてきたわけですが。

    webmasterの書くことはわかりづらいという方々に置かれましては、ぜひ上記にお目通しいただければ。はてなブックマークでも注目を集めていますから、何をいまさら、という向きも多いでしょうけれども。

    12/23/2007 (11:59 pm)

    責任主義の再検討?

    Filed under: policymaking, law ::

     薬害肝炎訴訟の和解協議をめぐり福田康夫首相は23日、原告側が求める被害者の「全員一律救済」を盛り込んだ法案を今国会に議員立法で提出する考えを明らかにした。首相官邸で記者団に語った。大阪高裁で行われている和解協議が難航しており、政治主導で問題解決を目指すことを決意した。原告側は「大きな一歩、問題解決につながることを期待する」との声明を発表した。首相が「一律救済」を決断したことで、肝炎問題は解決に向け、新たな局面に入った。

    産経「議員立法で「一律救済」表明 薬害肝炎で首相」

    薬害問題そのものは、政治判断ですから官僚が口を出すのも僭越な話です(明らかな問題がある、というのでない限り)。他方、本件が今後どのような影響をもたらすかについては、少し触れておきたい問題があります。それがタイトルに掲げた責任主義の話です。

    責任主義とはどちらかといえば刑事において広く用いられ、他方で本件は民事に属する事柄ではあります。しかしながら、ちょうど今年大いに話題になったとある件‐それは刑事の問題です‐においてwebmasterは気になることがあり、それとの連想で、実は今は、近代法の基本原理のひとつである責任主義が見直されつつある時期なのではないか、と大風呂敷を広げてみるのです。

    責任主義とは、責任を追及されるに足る主体であるからこそ責任を追及するのだということで、故意と過失の違い(殺そうと思って人を死に至らしめた者と、殺す気はなかったのに結果的に人を死に至らしめた者とでは、前者をより責任が重いとします)もそうですし、故意がないどころか過失もないようであれば、どれだけひどい結果をもたらそうとも、刑事上はなんら罪とは認識されません。民事上も基本は同じで、俗に損害賠償・慰謝料請求として報道されるほとんどは民事上の不法行為ですが、故意または過失による損害の発生が基本的前提となります。

    さて、「今年大いに話題になったとある件」とは、先ごろ大阪府知事選挙への出馬を表明した橋下弁護士による光市・母子殺害事件弁護団を対象とした懲戒請求の煽動のことです。弁護士懲戒制度の趣旨に照らせば、この煽動が批判されるべきなのは明らかですが、この事案が一筋縄ではいかないのは、

    • 彼の煽動に反応した人々が決して少なくないこと
    • 多くの者の感情から乖離した法制度は維持不可能であるとの彼の見解そのものは、当を得たものであること

    の2点です。

    前者についていえば、本件において直接問題視されているのは、弁護団が最高裁において一審・二審の主張とは異なる主張をしているということですが、そのような訴訟の実態は本件についてのみ観察されるものではありません。弁護団が主張を変えたからといって多くの人々が憤るのでしたら、世にこの手の懲戒話があふれているはずです。にもかかわらず本件においてこのような広がりを見せたのは、その主張に刑法第39条が絡んでくるから、平たく言えば心身喪失・耗弱者がテーマだからだとwebmasterは認識しています。

    後者についていえば、まさしく本件において実現されたことで、故意又は過失による損害を賠償するとの民法上の原則は、原告のみならず多くの者の感情から乖離したがゆえに維持されず、過失責任と無過失責任とを分け隔てなく取り扱う立法がなされようとしています。光市の事件は司法判断であり立法行為と同一には論じられませんが、政府の判断の前提となったのは司法判断ですから、同根から発しています。仮に司法が自らの判断が立法によって覆されると予測し、それを回避したいのであれば、判断を枉げるより他ありません(本件で言えば、判例に照らせば過失とは認定できないようなものをも過失と認定して、無過失責任による賠償との結果は回避する、ということとなります)。

    光市事件にかんがみれば、本件の延長線上に刑法第39条の削除、ないし実質的に骨抜きにする立法が来たとしても不思議ではないでしょう。最近、とりわけネット上などで多く見られる同種の問題として、少年法(正確には刑法第41条の責任能力年齢規定)にまつわる議論があります。これらは、刑法学説としてはいずれも責任主義に基づき設けられたものという点で共通し、なぜ刑が減免されるかといえば、自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性を否定されているからです。

    「自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性」といってもわかりにくいかもしれませんが、同種の民事法の例を考えればよりわかりやすいでしょう。民法上、成年後見制度に関する規定が置かれていますが、この下では、精神上の障碍を有する成年被後見人がした法律行為(契約の締結等)は、成年後見人が取り消すことができます‐騙された場合とか脅された場合とか誤解していた場合に限らず、です(これらの場合、一般人でも取消し等により「なかったこと」にできます)。

    つまり、成年被後見人が十分な説明を受けて納得づくでした判断であっても、その判断が一般的に期待される程度の水準でない場合、法律上は判断には足りないものとして取り扱うことが可能とされているわけです。必然的に、判断の結果もまた引き受けるに足らず、として取り消し得るのが成年後見制度。売った買ったという話の結果すら引き受けることから免れているのですから、犯罪行為の結果としての刑罰を引き受けることから免れるのは当然だ、というのが民事・刑事を貫く近代法における責任主義の原理なのです。

    責任主義とは、言い換えればできるはずのことができなかったことを違法とするものです。過失とは注意すれば避けられたもので無過失とは注意しても避けられなかったもの、心神喪失者は違法行為をしたところで、そもそも適法行為を期待できかった者です。かつて聾唖者は民法上も成年被後見人(当時の用語でいえば禁治産者。また、民法については盲者もそうでした)適格であり、刑法上も刑の減免を受けることができました(刑法については、正確にはイン(病垂れに音)唖者)。

    これらは聾唖者には責任能力がない、つまりは一般人にはできる(と期待される)判断ができなくてもおかしくはないとの前提に立つもの。今となってはいずれも削除されていますが(刑法の規定でいえば、上述の第39条と第41条の間の第40条がそれでした)、それはこうした考え方が差別的であるとされたからでした。

    さて、昨今の心神喪失・耗弱者や少年法適用対象者に対して刑罰を科すべしとの議論は、この聾唖者の議論とはまったく逆を向くものです。聾唖者については、あたかも古代ギリシアやローマにおいて市民権を有する者に兵役義務があり奴隷にはなかったように、責任能力がないという差別の結果として責任能力が認められず刑罰の減免を受けました。ところが心神喪失者等についての議論は、恩典として刑罰の減免がなされているとの前提に立ち、刑罰の減免を廃止すべきというものとなっています。

    #話の枕である無過失責任についても、無過失には責任なしとの原則が、あたかも恩典であるかのごとく見られ、それが排除されているといえるでしょう。

    責任主義のない法体系とは、近代法の範疇を外れるものですが、果たしてこれは近代より昔への回帰なのか、それともまったく新しい時代の法体系を切り開くものなのか? webmasterには、現時点では判断がつきかねます。

    #責任主義の今日的意義について、webmasterの駄文なんぞではなくきちんとした議論をお求めの向きは、大屋雄裕「自由とは何か」をお薦めいたします。

    12/22/2007 (11:59 pm)

    MIAUは未だ失敗せず?

    Filed under: policymaking, law, WWW ::

    MIAUを政治運動として見ればおっしゃるとおり失敗したのでしょうし、次につなげるためには切込隊長さんのご指摘を活かすなり、大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」にお目通しいただいて政策実現の実際を知っていただくなりする必要があるのでしょう。しかし、これはあくまで政治運動として見れば、という前提あってのこと。前提が変われば、結論も変わってきます。

    前提が異なるのでは、とは実は切込隊長さんがまるで「私たちの意見が通らなかったからこの仕組みは不正義だ」とでも言いたいのかととおっしゃっている点に端的に現れているとwebmasterは見ています。「言いたいのかと」とお書きですが、実際に言いたいのでしょう(切込隊長さんとて承知の上での婉曲表現かもしれませんが)。さらには、仕組みが不正義だというにとどまらず、権利者団体側の存在そのものが不正義であると(無論、それらに組する文化庁の存在もまた)。

    切込隊長さんのご助言にせよ大沼本の最大の教訓にせよ、webmasterなりに本質を抽出するならば、妥協が重要だということとなります。政治運動であれば、たとえば敵対する主張の穏健派を取り込むために相対的に重要でない主張については妥協することは、ほとんどの場合において必然でしょう。100点満点を求めて支持を得られず何も実現できないよりは、50点でもいいから支持を取り付けて(消極的支持でも何の問題もありません)実現することを目指すのは、政治運動であるならば当然のことです。

    他方、自らを正義の側と認め不正義の撲滅を目指すならば、妥協は忌むべきものとなります。撲滅すべき対象として認識している者に対する妥協は、撲滅ではなく存続を認めることが前提になるわけですから、忌避されるのも当然です。つまりはイデオロギー闘争の場合ですが、自らがいかに正義であるかを説き、対する者がいかに不正義であるかを説いて自らの正義の普及に努めるのは、イデオロギー闘争としては当然のことです。

    MIAUの発起人の方々の主観的意図がどうであれ(主観的意図としては、政治運動だったのでしょう)、MIAUへの賛同者がそれなりに集まったのは、イデオロギー闘争として機能した側面があるからではないか、とwebmasterは思います。あるいは、政治運動としてはほとんど機能していなかったとも。主張への賛同者がそれなりに集まったことを見れば、イデオロギー闘争としては案外成功であったのではないでしょうか。

    以下は蛇足ですが、「それなりに集まった」ことは上記のとおり評価できるでしょうけれども、今後の展望を考えるとなかなか厳しいのではないでしょうか。というのも、デジタルデータとして取り扱われる主としてネット上での著作物流通については、関心を有している人々はほぼ今般で情報が行き届いていると考えられるからです。言い換えれば、今後はそもそも関心を持っていない人々をいかに囲い込むかの段階へ移っていくこととなります。

    MIAUが事実の積上げに基づく論理的な議論展開を図るのであれば、その手の囲込みははかばかしくは進捗しないでしょう。というのも、細かな事実関係を確認したり、議論の論理性にこだわったりするのは、あくまで関心を持っているからこそできることだからです。その手の言論が説得力を発揮するには、まずは関心を持ってもらわなければなりませんが、その手の競争において、

    • 今後のコンテンツ産業の興隆を見据え、中国がネット上での海賊版流通を促進するために著作権法の強化に反対しており、それに加担するのは「反日」「売国」勢力である、といったコピペ
    • 某動画投稿サイトの愛用者が一目惚れしたストリートミュージシャンのため、広告になるかと思いライヴ映像をアップしたところ、悪質なパロディが広がって彼女は傷つき嫌われてしまい、彼女のためにもそのパロディの根絶に立ち向かう、といったD社制作映画、

    なんてものに対抗していくのはなかなかしんどいでしょう。今般のパブリックコメントの数に希望を見出す向きが多いようですが、あれだけの活動を進めているにも関わらず「一万件にも届かない程度のパブコメしか集まらなかった」との切込隊長さんのご指摘はまことに当を得ていると思います。世の中には、数万人規模の集会や署名なんてものはざらにありますが、それが実を結ぶ確率を考えれば、ということです。

    12/13/2007 (11:59 pm)

    「コピーされると儲かるシステムにすれ(命令形)」と故石原潔さんは語りき。

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     白田氏は、ハーバード大学のウィリアム・フィッシャー教授の説に言及しながら、「ある国の経済規模全体に占めるコンテンツ産業の規模は、おおよそ決まっており推計可能だ。その推計をもとに、税あるいは課徴金として国民が毎年一定額を支出することにより、国民がコンテンツ産業全体を買い上げることができる」と説明する。

     課徴金制度では、ユーザーが納める額は一定で、徴収の段階で誰が何をどのように閲覧したかは問題にならない。これによりユーザーのプライバシーを維持し、「お金を払っていない人にはコンテンツにアクセスさせない」という、本質的には困難であり、取引費用の大きな所有権的アプローチをとる現在の著作権制度とは別のあり方が出てくる、と白田氏は話す。

    「自分の納めた課徴金のうち、『○○パーセントを××というクリエイターに分配する』と指定できる仕組みが確立できれば、クリエイターの側には収入を増やすために、自分の作品を積極的に広める動機が出てくる。本質的にクリエイターは、作品がユーザーの手許に届くことを望んでいるはず。また、情報技術関連のエンジニアは、情報の送り手と受け手の自由をひろめるよう努力してきたはず。こうした積極的な方向への理想や努力を制約する制度は不幸だ」(白田氏)

    「隠す権利」から「広める制度」へ 変化が求められる著作権のあり方(3/3)

    白田先生にwebmasterの案(の基本的な枠組み)を受け入れていただいたようでうれしい限りです! って、先生は「webmasterの案」などご存知であるはずもないのでしょうけれども、フィッシャー教授の代替保証制度の公表に1年近く先立って、実は公表していたのです。今から見れば粗もあり恥ずかしくはありますが(たとえば、著作権者が自らネット上でコピーを繰り返すことへの対策がありませんが、ランダムサンプリングでトラフィックを推計することとすれば、現在の視聴率調査程度には大丈夫かも)、改めて明らかにすれば次のとおりです。

    1. ネット上で流通するデジタルデータについて、ウォーターマークを埋め込むこととする。 そして、データ送信の過程でウォーターマークが流通する回数をカウントすることとする。 今の技術で可能ではないような気もするが、webmasterは文系人間ゆえ、そのうち可能になるものと楽観的に考えてさらに議論を進めると、その回数に比例して国がウォーターマークを埋め込んだ著作権者に金を支払うこととする。 プレーンテキストはどうしようもないのであきらめてもらわざるを得ないが、その他は画像、音声、動画、プログラムなど、どれでも保護対象にできることになるだろう。 これにより、サイトからダウンロードであろうと、WinnyやWinMXなどによるP2Pでの交換であろうと、とにかくネット上で広まれば広まるほど儲かるということになる。

    2. 支払われる金の財源としては、新たな税金を設けることとする。 しかし、エルドレッド法案のように著作権者から徴収するのではない。 基本的には受益者負担が望ましいのだが、あまり厳密にすると負担逃れのためのクラックが横行するリスクがあるし、気軽な試用ができずコピーが阻害されかねない。 したがって、記憶媒体に課税することとする。 コピーして活用する場合には、必ず何らかのメディアに記録する必要があるから、ゆるやかな受益者負担となるし、購入時点で間接税として徴収されるため、クラックをするインセンティブは相当程度低くなるはずだ(愉快犯的な欲求は常にあるだろうからゼロにはならないだろうが)。 バイトあたりいくら、という形が基本だが、記憶媒体の進歩を促すためには、密度に応じて税金をまけてやるなんてことも有効だろう。

    3. このままでは2つ問題が残る。 1つは好ましからざる使用の防止には有効でないこと。 例えばアイドルが自分の写真をアイコラには使って欲しくないということに対しては、ウォーターマークスキームは無力だ。 これについては、基本は現行法制と同様の仕組みで対応することが無難だろう。 つまり、一定期間内は著作権者に使用の差し止め請求権を認めることとする。

    4. もう1つは、フリーウェア作成が停滞するリスクがあること。 なにせ、ウォーターマークスキームにおいては、使う側からすれば直接金を支払わなくてよいという点では、企業製品も個人の作品も変わりがなくなる。 であれば、今は企業製品やシェアウェアに金を支払いたくないがためにフリーウェアを使っている人間の多くがフリーウェアの使用を中止しかねないし、そうすればフリーウェアを作成する気力を失う作者も多かろう。 これについては、国から金を受け取る権利を分割・譲渡可能にすることで対応することとする。 いわばデジタルデータについて「株式」を発行するようなものだ。 自分はお金はいらないから少しでも多くの人に作品を見たり使ったりして欲しいという作者はこの「株式」を利用者に与え、他方で利用者は「配当」を期待して将来普及しそうと見込まれるフリーウェアを使ったり自主的にPRしたりするようになる、という形でのプロモーションが可能となる。

    5. 蛇足ながら、ウォーターマーク埋め込みは義務ではなく権利である。 したがって、例えばストールマンの理念に共鳴してGPLライセンスで自分の作品を流通させたいと思えば、ウォーターマークを埋め込まずそのままネット上で公表すればよい。 ウォーターマークはあくまで国から金をもらうために埋め込むことができるものであり、国から金など受け取りたくないという人に対して同調を強いるものではない。

    書を捨てず、ネットに出よう−「コモンズ/ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」(ローレンス・レッシグ著、山形浩生訳)(2003/12/4付)

    といってもこのアイデアも、さらに5年の時をさかのぼり1998年に公表された故石原潔さんのコピーされると儲かるシステムにすれ(命令形)にインスパイアされたもので、まことにネット上での著作権の議論らしくオリジナルが何かということは(少なくともwebmasterにとっては)重要ではありません。より重要だとwebmasterが思うのは、白田先生のご提案の勘所が何かという点で、石原さんのタイトルのようにコピーされればされるほど著作権者が儲かり、著作権者が自ら儲けのためにコピーを促進するようなものでなければならないでしょう。下衆の勘繰りではありますが、白田先生のこれまでのおっしゃりようから察するに、現在の流通業者等が儲からなくなってもかまわないとお考えなのでは、という気がするのです。

    しかし、現在の流通の仕組みによって儲けている者がおり、仕組みが変わることによってその儲けが失われると予測するならば、当然にそれらの者は仕組みの変更に反対するはずです。実際に、儲けが減る可能性が高い者の存在は、次のように十分に予測可能です。

     なぜ、Winnyの音楽ファイルダウンロードがCD売上を減らさなかったのか。田中氏はこの理由として、CD購入者とWinnyユーザーは需要が異なるという仮説や、Winnyには宣伝効果があるとする仮説などを立てる。

     「実際、米国では中堅以下のアーティストがファイル交換ネットワークに作品を流すと、売上が増えるという。トップアーティストの場合は売上が減るようだが……」

    WinnyはCD売上を減らさず〜慶應助教授の研究に迫る (3/3)

    だからといって、そうした反対者を理念的に糾弾したところで(たとえば「自分の利益のために全体の足を引っ張っている」など)、その批判を受け入れても飯の種にはならないのですから、反対は止むはずもありません。あくまで儲かるとのインセンティヴによって賛成に誘導することが、自由なコピーの実現にためには有益でしょう。

    さらに言えば、仮に現在著作権関連の企業の利益がX兆円、消費者が支払っている代金がY兆円だったとして、分配金の学はX兆円ではなくY兆円とするぐらいの思い切りがあれば、導入はさらに早まるでしょう‐現在X兆円しか儲けていないのに、儲けをY兆円(に近い額)とするのは心理的抵抗が大きいとは思いますが、消費者としては今以上の負担を強いられるわけでもなく、他方でコピーの自由が享受できるようになり、現時点でも損はないですし、中長期的メリットは言わずもがななのですから。

    11/30/2007 (9:01 pm)

    法律家≠政治家

    Filed under: politics, law ::

    たぶん法律家の人達は「あるべき日本の道徳」とか、正義といったものを、議論して定義するところまでを仕事の範囲にして、実装は経済学者に任せればいいんだと思う。

    ほとんどどんな条件のもとでも、一意的な均衡に誘導するメカニズムは存在するし、経済学者はたぶん、それをデザインすることができる。

    1. 法律家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
    2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
    3. そのデザインには誰も口出しできない代わり、経済学者は、「仕様書」には口を出せない

    道義最適と、経済最適とは、たぶんしばしばぶつかりあう。「どちらがより最適なのか?」を議論する場所は、あくまでも仕様書を作る議会。法律家のお仕事。

    (略)

    法律家や政治家が支配していたニッチは、今はどうみても経済学の領域。論理と度胸の経済学者が支配していた「お金」の世界は、今は物理学者や数学者が大活躍。様々な学問は、そのニッチを奪いあいながら、社会は進む。

    「法律の人達は神様でも裁いてればいいんだと思う」(@レジデント初期研修用資料11/30付)

    法律家の機能について、ずいぶんと誤解があるように思います。法律と道徳の関係については、次の証言が標準的な見解を示しています。

    ○岩本一郎君 今御質問いただいたのは、法律と道徳との関係だと思うんですけれども、私の基本的な考え方は、近代法の原理というのは、法律と道徳というのは分離すべきものであって、道徳的な態度を法律によって養う、あるいは強制するということは、これは近代法において、あるいは立憲主義においてあってはならないことだというふうに考えております。

     しかしながら、法と道徳というのは全く無関係なものではございません。例えば刑法のようなものというのは、例えば人を殺してはいけないとかそういった事柄というのは、確かに道徳との一致点はあるわけです。しかしながら、法律の中で、そこに組み込まれている道徳というのは最低限の道徳であって、これは、さまざまな人間が暮らしていて、さまざまな考え方を持っている人間たちが暮らすこの社会において最低限の守らなければならない道徳、すべての道徳観において共有されている、コンセンサスを得られる、理にかなった道徳でなければならないというふうに思うわけです。

    2006年11月13日開催の教育基本法に関する公聴会(衆議院・教育基本法に関する特別委員会)における岩本一郎北星学園大学経済学部教授の答弁

    「標準的」と書いたのは、論者によって見解には幅があるから。たとえばケルゼニアンの門前小僧であるwebmasterであれば、もっとリジッドに法と道徳は分離されている(岩本先生の話をお借りすれば、「人を殺してはいけない」とは法が要請するのではなく、そのような法を定める政治が要請するものということになります)と考えるわけですが、いずれにしても「仕様書」を法律家が作るということには、多くの法律家が違和感を抱くはずです。

    medtoolzさんのリストを以上のような観点から書き直すならば、次のようなものとなるでしょう。

    1. 政治家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
    2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
    3. 法律家は経済学者が考案した構造をコーディングする
    4. 仕様書は政治家同士が、構造は経済学者同士が、コードは法律家同士がレヴューすることを基本とする

    #英語で「法律」を表す単語のひとつに”code”があることは、きわめて示唆的でしょう。

    おそらくmedtoolzさんには、法律を作る立法府の構成員は、法律を作るのだから法律家だ、という理解があるのでしょう。しかし、法律家とはまずは法曹、すなわち裁判官や検事、弁護士であり、次いで法の執行を司る行政府職員や司法書士その他の準法曹的専門職などが続くこととなります。立法府とは、法律のてにをはを定める機能を担うのではなく、medtoolzさんご指摘の通り仕様書に相当する理念・概念こそを定めるべきであるからこそ、法律家ではなく一般人(を代表する者)が構成員となるわけです‐もちろん、法律家のバックグラウンドを持つ者が構成員になることを阻むものではないのですが。

    11/29/2007 (11:59 pm)

    接待を違法化すべき。

    Filed under: government, law ::

     守屋武昌前防衛事務次官(63)が在任中、防衛専門商社「山田洋行」元専務、宮崎元伸容疑者(69)側からわいろの認識をもって総額389万円に上るゴルフ旅行接待を妻とともに受けたとして、東京地検特捜部は28日午後、守屋容疑者と妻、幸子容疑者(56)を収賄容疑で逮捕した。特捜部は守屋容疑者が防衛装備品調達などで宮崎容疑者側に便宜を図ったとみて調べる。

     300回を超えるゴルフ接待など元防衛官僚トップと業者との長年の癒着は汚職事件に発展した。特捜部は防衛利権を巡る不正の全容解明を進めるとみられる。

    日経「守屋前次官夫妻を収賄容疑で逮捕――東京地検」

    守屋前防衛事務次官が接待を受けていたことはかなり前から明らかになっていたわけですが、逮捕が今のタイミングになったのは、

     (収賄、受託収賄及び事前収賄)

    第197条 公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する。この場合において、請託を受けたときは、7年以下の懲役に処する。

    2 (略)

    という収賄罪の規定中、「その職務に関し」を満たすかどうかの判断に時間がかかったということでしょう。逆に言えば、現行法上、「職務に関」するものでなければ、接待は無論のこと、金品を受け取っても刑法上の収賄罪とはなりません。しかし、現在の公務員に対する世論からすれば、「職務に関し」なくとも収賄とする法改正をすべきであるとwebmasterは思います。

    法技術的には、どこからが「賄賂を収受」するものなのかの判定が難しいことが問題になるのかもしれません。たとえば接待に関して、割り勘であれば「賄賂を収受」でないとしていいかと考えても、公務員がそれなりの価格のワインを空けて同席者は飲んでいない場合、ワイン代込みでの割り勘は、厳密には「賄賂の収受」でありましょう。しかしこの理屈をつきつめれば、大皿から取り分けた料理がどれだけかをいちいち量らないことには「賄賂の収受」の可能性があるということとなり、罪刑法定主義の観点からすれば微妙な話です。

    #現行法の運用としては、起訴便宜主義でそのあたりは阿吽の呼吸なのでしょう。刑法は、口語化されたとはいえ記述振りとしては明治の法律ですから、最近の法律との規定の粗密のバランスとしては、若干粗きに過ぎるようにwebmasterには思われます。

    こうした「神学論争」のために早急な整備が難しいというのであれば、次善の策として、国家公務員倫理法改正が考えられます。

     経理局長の嶋口武彦(62)と官房長の守屋武昌(63)。会議前の立ち話だった。

     「お前なあ、倫理規程ができたんだから、(業者からの接待は)いい加減気をつけろ」

     入省年次が1年先輩の嶋口は、同年4月に出入り業者とのゴルフや飲食を禁じた自衛隊員倫理規程が施行されたことを踏まえ、こう切り出した。

     庁内で毎日配布される幹部の行動予定表の中で、守屋の夜の予定の多さは際立っていた。毎晩1〜3回程度の「会合」がいつも記載されていた。その頻度からみて、すべて自己負担の会合ではないことは容易にうかがえた。

     だが、嶋口の苦言に、守屋は平然とした顔で答えたという。

     「嶋ちゃん、あんなのいくらでも抜け道があるんだよ」

     「お前、官房長だろう。取り締まる立場なんだぞ」と嶋口は重ねて自覚を求めたが、守屋の態度は変わらなかった。

     守屋は山田洋行元専務、宮崎元伸(69)から、飲食接待のほかに8年間で300回を超すゴルフ接待を受けていた。倫理規程の施行前後から、ゴルフの際は夫婦で偽名を使うようになっていた。守屋が言った「抜け道」とはこのことだったのか−。

    産経「【防衛利権の闇(1)】夜の人脈誇示 自民領袖・議員、宴席にズラリ」(1/4)

    これらの行為は、おそらくは国家公務員倫理法第6条の報告義務違反でしょう(裏は取ってませんが)。現行の同法は、報告義務違反について罰則が科されていないのですが、これについて罰則を科せば、接待を受けた段階で収賄として取り扱う場合とほぼ同様の効果が得られるのではないかと思います(単純収賄とのバランスを考えれば、5年以下の懲役というのがひとつの相場でしょうか)。

    11/28/2007 (11:59 pm)

    続・「ワークブック法制執務」改訂

    Filed under: book, law ::

    昨日のエントリに対して、kei-zuさんから言及いただきました。

     自治体の職員の方々におかれては、むしろ

    自治立法実務のための法制執務詳解

    作者: 石毛正純
    出版社/メーカー: ぎょうせい
    発売日: 2004/07
    メディア: 単行本

    の方がスタンダードであろうと思うところで、課内で法制執務を担当して間がない後輩に聞いてみたやり取りは以下のとおりです。

    私「改め文を書くときに『ワークブック法制執務』って読むかい?」

    後輩(女性)「『法制執務詳解』は参考にしますけどぉ、『ワークブック法制執務』は読んだことありませぇん」(そういう風に喋る人なのです)

     「法制執務詳解」がかくも自治体法務職員の頼りにされている理由は、昭和58年に初版が発行されて以来、4回の改訂を経て、内容がアップデートされていることと、掲載例の網羅性、そして引きやすい目次構成によるものでしょう。

    同僚「『ワークブック』って、調べたいことがあっても引きにくいじゃないですか。国で、法令改正の初心者の人は、どうやって改め文を書くんですかね」

    私「うーん、『ワークブック』を見ながらとりあえず書き上げて、先輩にガシガシ修正を受けるOJTなのかなあ」

    「「ワークブック法制執務」と「法制執務詳解」」(@自治体法務の備忘録11/28付)

    「法制執務詳解」は読んだことがないのですが、「ワークブック」が霞が関スタンダードなのは、ひとえに内閣法制局を相手にするときにもっとも有効だからに他なりません。条例の事例を引いても内閣法制局では相手にしてもらえませんから(それどころか、法律であっても、議員立法のものは、それしか例がないような場合にのみやむなくという感じで、可能な限り内閣提出法案の事例を用いることが望ましいとされます)、「法制執務詳解」では実際に使える部分が限られるということでしょう。

    霞が関での改め文の学び方は、たいていはOJTです。まったく条文作成の経験がない者が「ワークブック」を引きながら、ということではなく、自分が係長時代に補佐が書いた条文案の法制局審査に同席し、そこでのやりとりを聞きながら学んでいく、ということが多いように思います。補佐が教育的配慮に富んでいる場合は、「じゃあここの部分を書いてみて」と下請けに出して学ばせたりすることもあります。

    ちなみに昨日のエントリにて、「ワークブック」も時代遅れの部分があると書いたわけですが、

     また、「法制執務詳解」では、著者が属される自治体のローカルルールなのか、独自のご見解と思われる記載もあり、利用に当たっては注意も必要です。

     「各号列記以外の部分中」は、そこで改正しようとする字句が同一条項中の他の部分にもあり、その部分の字句は改正しない場合のように、これを用いるほかに方法がないやむを得ない場合に限り、用いるものとされている(中略)。このため、法令における取扱いは、このような場合、「各号列記以外の部分中」を用いない方式によるものが多いようである。しかし、条項中の字句の改正は、前の方から順に行われている方が、改正箇所を知る上で利点があるので、各号列記以外の部分と各号中の双方の字句を改正する場合には、前の方から順に改正を行うために改正箇所を特定する手段として、「各号列記以外の部分中」を用いる方が適当であろう。

    (336〜337頁)※強調はkei-zu

     同書は次回の改訂に改訂に際しては、多くの自治体で運用されている横書きの例規を想定したものとすることが検討されているそうであり、そうなると、自治体職員向けの性格がより明らかになるでしょうね。

    「「ワークブック法制執務」と「法制執務詳解」」(@自治体法務の備忘録11/28付)

    この「各号列記以外の部分中」こそが、webmasterが念頭に置いていたものでした。なんという偶然でしょう! といっても訳が分からない人が大半でしょうから、詳しく書いてみます。行政事件訴訟法の一部を改正する法律(平成16年法律第84号)の附則第9条(地方自治法の一部改正)の中に、次のような規定があります(ということは、webmasterがお相手いただいた参事官の方が間違っていた、ということに・・・まあ、できるだけ使わないように、ということになっているのだと思います。「法制執務詳解」においても、法令としては「これを用いるほかに方法がないやむを得ない場合に限り、用いるものとされている」とのことですし)。

     第251条の5第1項各号列記以外の部分中「行政庁」の下に「(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)」を加え、同項に次のただし書を加える。   ただし、違法な国の関与の取消しを求める訴えを提起する場合において、被告とすべき行政庁がないときは、当該訴えは、国を被告として提起しなければならない。

    他方、現行の地方自治法第251条の5第1項は次の通りです。

    第251条の5 第250条の13第1項又は第2項の規定による審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該審査の申出の相手方となつた国の行政庁(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該審査の申出に係る違法な国の関与の取消し又は当該審査の申出に係る国の不作為の違法の確認を求めることができる。ただし、違法な国の関与の取消しを求める訴えを提起する場合において、被告とすべき行政庁がないときは、当該訴えは、国を被告として提起しなければならない。
     一 第250条の14第1項から第3項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告に不服があるとき。
     二 第250条の18第1項の規定による国の行政庁の措置に不服があるとき。
     三 当該審査の申出をした日から90日を経過しても、委員会が第250条の14第1項から第3項までの規定による審査又は勧告を行わないとき。
     四 国の行政庁が第250条の18第1項の規定による措置を講じないとき。

    両者から、行政事件訴訟法の一部を改正する法律による改正前の条文を復元すれば次のようになります。

    第251条の5 第250条の13第1項又は第2項の規定による審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該審査の申出の相手方となつた国の行政庁を被告として、訴えをもつて当該審査の申出に係る違法な国の関与の取消し又は当該審査の申出に係る国の不作為の違法の確認を求めることができる。
     一 第250条の14第1項から第3項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告に不服があるとき。
     二 第250条の18第1項の規定による国の行政庁の措置に不服があるとき。
     三 当該審査の申出をした日から90日を経過しても、委員会が第250条の14第1項から第3項までの規定による審査又は勧告を行わないとき。
     四 国の行政庁が第250条の18第1項の規定による措置を講じないとき。

    ここで、行政事件訴訟法の一部を改正する法律の地方自治法の改正規定に「各号列記以外の部分中」がない場合を想定してみますと、第2号や第4号の「行政庁」の下にも「(国の関与が・・・)」と加えられてしまって都合が悪い、ということとなります。では、「各号列記以外の部分中」を使わずに同じ改正を行う(=webmasterが当時参事官の指摘を受けて書き直したやり方でやる)場合にはどうすればいいのでしょうか?

     第251条の5第1項中「行政庁を」を「行政庁(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を」に改め、同項に次のただし書を加える。(ただし書略)

    とすればよいのです。同項第2号は「行政庁の」、第4号は「行政庁が」ですから、これらの号まで改正されてしまうことはこの書き方で回避できます。すなわち、これで同じ改正が可能となるのです。

    11/27/2007 (11:59 pm)

    「ワークブック法制執務」改訂

    Filed under: book, law ::

    kei-zuさんのご紹介ですが、あの「ワークブック法制執務」ついに改訂とのこと。「あの」といっても霞が関で法令案の作成に携わっていないと意味不明でしょうけれども、法令案を作成する場合に、規定したい内容を如何に法令用の公用文に「翻訳」するかの手引書、と申し上げれば大まかなイメージはお掴みいただけるでしょうか。

    「法制執務」で検索すれば類似書は見つかりますが、本書が霞が関スタンダードです。何か困ったときに3分以内でこの本の該当箇所が探し出せる(同じことの言い換えですが、これはこの本には載っていないな、ということが問題を見た段階でだいたい見当がつく)ぐらいに使いこなせれば、法令案作成担当として使い物になると認めてもらえるような、そんな本です。霞が関においてもっとも冊数が多い書籍候補の筆頭でしょう。

    「ついに改訂」といったのは、それほどの本書ではあっても、最近ではさすがに時代遅れとなった例が散見されるようになってきました。webmasterの個人的経験でも、

    内閣法制局参事官

    この規定はどこから持ってきたの?

    webmaster

    ワークブックの○○ページです。

    内閣法制局参事官

    (該当部分に目を通して)うーん、最近ではこういう書き方はしないなぁ・・・。

    といったやりとりをした記憶があります。

    本書に触れる機会があるのは日本人の極々一部に限られるとは思いますが、霞が関での仕事(の一部)がどのようなものかを知りたいという人がいらっしゃいましたら、目を通してみると面白いと思います。ま、そのために買う価値はありませんから、図書館ででも(って、普通の図書館に置いてあるのでしょうか・・・)。

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