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  • 01/13/2008 (11:59 pm)

    「総量規制」の経緯

    Filed under: policymaking, government, history ::

    昨日、CXにて放映された「バブルへGO!!」においては、いわゆる総量規制通達が重要な位置を占めていたわけですが、まあ××のために、というのはご愛嬌としても(ネタばれ防止のため伏字にしてます)、実際にどのような状況であのようなものが導入されたのか、当時のデータとしてネットで収集可能なものとして、国会会議録から集めてみました。国会会議録検索システムを使って探したので、検索語の不適切さ等からもっと的確な発言を探し漏らしている可能性はありますので、その点にはご留意をいただければ。

    まずは1990(平成2)年3月27日の通達発出前のものから。最初に土地関連融資の伸び率に着目した応答が行われたのは、1986年まで遡ります。

    ○刈田貞子君 それから、土地高騰を招いている原因として地上げ屋というような存在が強引な土地の買い占めを行っていくというような事柄もいろいろ出ておるようでございますけれども、その裏にやはり民間金融機関等の不動産業種への異常な貸し付けというのは、これは私、否めない事実なんですね。これも私は四月の、先ほどの申し上げました委員会におきまして御指摘申し上げておるわけです。マネーゲーム的に土地を一生懸命買い占めておると、これを今規制しておかないと大変ですよということを私は申し上げておりまして、当時日銀の調査で、私が調べたところでは不動産業者への貸付残高、たしか二三・一というふうに一月から二月の間のデータで御指摘申し上げた。一般企業への貸し付けは一〇・三なんです。それが二三・幾らだったわけ、それで私はこれは異常ですよと申し上げておいた。そしたらその後日銀の調査では四月―六月期で何と三一・一に上がってるでしょう、そうですね。そして七月―九月には三〇・九にはなっているけれども、私申し上げておいたとおりこれは四月に大蔵さんに依頼して指導してくれと銀行局さんに言ったんでしょう。だけどその指導が一向に功を奏してないわけですね。これは私はまことに遺憾な事情だと思う。大蔵省さん見えてますね、なぜこの効用が発揮できなかったんでしょう、通達の。

    ○説明員(中平幸典君) 金融機関の融資の問題でございますけれども、金融機関がどういうところに融資をするかという問題につきましては、基本的には各金融機関の自主的な判断に基づくものであるというふうに考えておりますけれども、金融機関は公共的な使命を有しておるわけでございまして、このことを十分に自覚をしてその融資に当たりまして社会的な批判を招くことがないように従来から私ども指導を行ってきているところでこざいます。ただいま先生の御指摘もございましたように、国土庁からの御要請もございまして本年の四月に金融機関に対して通達を発出いたしまして、投機的な土地取引を助長することのないように指導を行ったところでございます。

     ただいま先生御指摘のように金融機関の土地融資、特に今先生がおっしゃいましたのは不動産業向けの貸し出し残高の伸び率につきまして非常に高い伸び率ではないか、こういう御指摘でございます。先生の御指摘になりました数字にもございましたように、九月末のところで前年に比較をいたしまして三〇・九%伸びております。これは八月末の三四・一というのから比べますと若干数字は下がっておりますけれども、依然として高いということは御指摘のとおりでございます。

     今回の通達は、今申し上げましたとおり投機的な土地取引を助長するようなことのないように適切な対処をしてくださいと、こういうことでございまして、金融機関の土地関連融資その額そのものを抑制しようとするものではございません。土地に関連する金融機関の融資にも社会的に有用なものがあることが通例であることは御承知のとおりでございます。したがってその融資額が顕著に減少してないということをとって、直ちに通達の趣旨が生かされていないのだということにはならないと思いますけれども、いずれにいたしましても、最初に申し上げましたとおり金融機関の土地融資につきましては、今後とも国土庁等と緊密な連絡をとりまして通達の趣旨が徹底するように私どもとしても指導に努めてまいりたいというふうに考えております。

    参議院・決算委員会(1986年12月12日)(webmaster注:刈田貞子議員は、公明党(当時)所属です)

    ここでは、大蔵省(当時。以下同じ)の担当者は、「金融機関の土地関連融資その額そのものを抑制しようとするものではございません」としており、総量規制的な考えを採ってはいないことを明らかにしています。続いて、総量規制について直接の言及のあったものに進みます。時代は3年ほど下って1989年。

    ○粟屋委員 今、金融の引き締め問題について国土庁長官もお触れになりました。私は、この金融の引き締めを適期にきちんと行うことが地価高騰の抑制につながるのではないかと思っておるところでございます。

     昭和四十七、八年の異常な地価高騰の際も、銀行局長通達を四十八年に出しまして、土地関連融資の増勢、伸び率でございますけれども、これを総融資額の範囲内にとどめるという措置をとったわけでありまして、これが大きく効果を発揮しまして、潮の引くように地価鎮静に至ったのではないかなと思っておるわけであります。ただ、金融政策は土地ばかり見詰めておるわけにはいかないこともよく承知をしております。当時の好不況の問題もありましょうし、また金融政策独自のお考えもある。これは私もよく理解をできるわけでございますが、やはり時宜を得て的確にやっていただくこと、これは必要ではないかなと思っております。

     今般も銀行局長通達を三度にわたってお出しをいただいておるようでございまして、最初は、土地関連融資が社会的な批判を招かないように配慮をすべしということであったようでありますが、六十一年の十二月になると、投機的土地取引の融資については厳に慎むこと。また六十二年十月には、閣議決定の緊急土地対策要綱を受けて具体的な指示をされております。特に、監視区域内においては、勧告をしないという不勧告の通知があった場合あるいは一定期間内に判断が下されない、そういうような場合には融資をしてもいいがそれ以外は慎むとか、また、実需を対象として融資をすべきであって、融資対象土地の利用計画、建設計画をきちんと明らかにした上でやれ、こういうような通達もお出しになっているようであります。

     私は、そのときどきに適切な措置をおとりになったと思いますけれども、やはり上がり切ったところでそういう措置をとってもこれは余り効果が出ない、やはり上がらんとするときに、異常な事態となろうとするときにそれを事前にきちんとつかまえた上で、早期に的確にやっていただくことが必要ではないかと思っておるところでございます。大蔵省のおとりになった措置は私は評価いたしますけれども、今の私の見解につきまして大蔵大臣からお答えをいただければと思います。

    衆議院・予算委員会(1989年10月13日)(webmastr注:粟屋委員は、自民党所属の粟屋敏信議員)

    この「土地関連融資の増勢、伸び率でございますけれども、これを総融資額の範囲内にとどめるという措置」とは、後の総量規制の内容そのものですが、この発言からわかることは、

    • 総量規制は列島改造論による地価高騰時に講じられた措置であり、当時においてはその存在を記憶している人々が少なからずいた、
    • 総量規制に先立って大蔵省は重ねて土地関連融資抑制策を講じてきており、総量規制において急ブレーキを踏んだわけでは必ずしもない、

    ということでしょう。

    続いて、当時の大蔵省を巡る状況がもっともよく表れているいるとwebmasterが思うものを。結構長いのですが、お許しいただければ。

    ○村沢牧君 基本法には「土地は、投機的取引の対象とされてはならない。」、投機的取引の抑制を規定しています。

     今日まで異常な土地騰貴をもたらした元凶は投機的取引にあったことは国民だれしも知っておることです。投機的取引の背景には金融機関の不動産関連融資がある。銀行が地価の高騰を助長してきた面もある。日銀の澄田総裁は、かりそめにも金融機関の融資活動で土地の騰貴をもたらし、インフレ心理をあおったり、国民生活を不安定にさせてはならないと金融機関に警告を連発しておったのです。私も同感であります。大蔵省銀行局長の見解を求めます。

    ○政府委員(土田正顕君) 金融機関の土地関連融資につきましては、かねてから通達の発出、特別ヒアリングの実施等を通じまして、投機的土地取引等に係る融資を排除するように厳正に指導してまいったところでございます。

     その結果、金融機関の不動産向け融資の残高の伸び率は、特別ヒアリング実施後の六十二年度上半期以降基調として大幅に減少してきていると考えております。

     ただ近時、地方都市を中心に地価上昇が続いている状況にかんがみまして、国土庁のとられます措置と平仄を合わせ、大蔵省としても投機的土地取引等に係る融資を厳に排除するという従来の通達の趣旨をさらに徹底させるとともに、これは簡略にいたしますが、諸般のいろいろな措置を講じておるわけでございます。

     ただ、ここで一つ申し添えたいと存じますのは、不動産業向けの融資の数字などを私どもは参考にしているわけではございますけれども、土地関連融資のすべてが問題であるということではございませんので、住宅、民活関連、その他の内需に必要な資金、それの円滑な供給はこれは確保してまいる必要があるわけでございます。しかし他方、投機的な土地取引等に係る不適切な融資は、これは厳しく排除するという必要があるわけでございます。

     そこで、このようなところから見まして、なかなか特定の統計の数量のみをもって成績を評価するということは難しいわけでございまして、そこのところは私どもが従来からやっておりますようなきめの細かい特別ヒアリングとか金融検査とか、そういう個別のチェックが必要となるというふうに考えております。

     このような点に十分留意いたしまして、今後とも私ども一連の措置を通じまして、投機的土地取引等に係る融資が厳に排除されるように強力に指導してまいる所存でございます。

    ○村沢牧君 金融機関に対する大蔵省の指導については、もう何回もここでお聞きをいたしました。今局長からまた改めてお聞きをしたところでありますけれども、しかし大蔵省の担当課長は、本委員会で、銀行行政として考えられるあらゆる手段を尽くしているというふうに答弁をしておるのであります。局長、今までやってきた手段が、大蔵省としてはもうこれが最高のものだというふうにお考えになっていらっしゃるのかどうか。基本法が制定されることを契機にいたしまして、過剰な土地関連融資を抑制する政策を大蔵省ももっと強化すべきではないかと思いますが、どうですか。

    ○政府委員(土田正顕君) (略)

     そのような措置の前進を図っていきますのが現在のところでは最善の対応と考えております。

    ○村沢牧君 石井国土庁長官は、本委員会で我が党の山本理事の質問に対して、地価高騰の要因とされている金融機関の土地関連融資の拡大について、土地基本法の成立を前提に土地関連融資残高の多いところから銀行名を公表することが必要である。また、不適当な融資には罰則を含めた規定をつくってもよいではないか。こういう決意を込めた答弁をしておるのであります。

    (略)

    ○国務大臣(石井一君) 私は弁解をしたり弁護をしたりするつもりはございません。ただ、村沢先生、私は前回の答弁で、土地がこれ以上暴騰を続け、また不動産関連の融資がこれ以上額をどんどんとふやすというようなことになれば、公表もするべきであり罰則も加えるべきである、こういう趣旨の答弁をいたしたわけでございます。前段は一つあったということは事実でございますが、ところが新聞にも報道されました。大蔵省の方からもおたくの長官はあんまり元気よくやるなと言うて後ろからやってきたのも、私は直接聞いておりませんが、私のところへ来ておりませんけれども、事実でございます。

     しかし私は、なぜこの公表ができないのかという問題をも追及いたしたわけでございます。ただいま局長の答弁にもございましたが、中には適正な融資もある、不適正な融資もある。この区別も非常に難しい。また、額だけで順番を決めても、それを専門的にやっておる、そこに重点を置いておるバンクもあれば、そうでないものもある。そしてさらに、大手とか地方ぐらいまでは手が届くのですが、銀行局自体の届かぬところで一番反社会的行為が行われておる。このようないろいろ立場上の問題もあるようでございます。

     しかし私は、あの発言一言で、銀行に対しましても相当なアナウンス効果は出ておると思います。それに甘んじてはおりません。今後必要であれば大蔵大臣と直接直談判をいたしまして、銀行局長はこのように申しておりますが、さらに状態が悪くなれば当然やるべきであるし、銀行というのはやっぱり社会的信用ということを最も重視しておりますだけに、我々から見れば公表一回ぐらいですよ……

    参議院・土地問題等に関する特別委員会(1989年12月8日)(webmaster注:村沢牧議員は、日本社会党(当時)所属です)

    この応答からわかるのは、

    • 大蔵省は総量規制導入の約4ヶ月前であっても「現在のところでは最善の対応と考えております」と答弁しており、総量規制を含む新たな規制の導入には後ろ向きだったこと(国土庁の事務方に対して牽制するほどに)。
    • 他方で石井国土庁長官(当時。以下同じ)が個別銀行名の公表や罰則制定(!)といった新たな規制の導入の必要性を訴えていること。

    です。当時のマスメディアの論調の裏取りは困難ですが、急速な金利引上げを主導した三重野日銀総裁(当時)が「平成の鬼平」と誉めそやされたこと等に照らせば、石井国土庁長官の側に世論の支持があったことは想像に難くないでしょう。

    加えて、国務大臣である国土庁長官の発言がある以上、それに対してゼロ回答、というのは官僚としては採り難い選択肢です。というのも、もちろん他の大臣の発言を公式に蹴飛ばすには官僚の側も自分の大臣に上げる必要があるのですが、となれば大臣同士が意見を異にすることとなり、閣内不一致を引き起こしてしまうからです。閣内不一致となれば、大臣の辞職、ひいては内閣の信任問題にもつながりかねませんが、そのような事態の引き金を引く度胸は、官僚にはありません(例外的な者の存在の可能性は認めるにせよ)。

    結局のところ、芹沢局長=土田銀行局長(当時)が「バブルへGO!!」で描かれたような傲岸不遜な官僚であれば、むしろ世論や石井長官の意見にも背を向けて、我こそが正しいと総量規制を否定し続けることができたことでしょう。彼が世論を気にし、他の大臣の発言にも何らかの形で応えなければと考えるありがちな官僚だったからこそ、総量規制は導入されたのです。

    12/23/2007 (11:59 pm)

    責任主義の再検討?

    Filed under: policymaking, law ::

     薬害肝炎訴訟の和解協議をめぐり福田康夫首相は23日、原告側が求める被害者の「全員一律救済」を盛り込んだ法案を今国会に議員立法で提出する考えを明らかにした。首相官邸で記者団に語った。大阪高裁で行われている和解協議が難航しており、政治主導で問題解決を目指すことを決意した。原告側は「大きな一歩、問題解決につながることを期待する」との声明を発表した。首相が「一律救済」を決断したことで、肝炎問題は解決に向け、新たな局面に入った。

    産経「議員立法で「一律救済」表明 薬害肝炎で首相」

    薬害問題そのものは、政治判断ですから官僚が口を出すのも僭越な話です(明らかな問題がある、というのでない限り)。他方、本件が今後どのような影響をもたらすかについては、少し触れておきたい問題があります。それがタイトルに掲げた責任主義の話です。

    責任主義とはどちらかといえば刑事において広く用いられ、他方で本件は民事に属する事柄ではあります。しかしながら、ちょうど今年大いに話題になったとある件‐それは刑事の問題です‐においてwebmasterは気になることがあり、それとの連想で、実は今は、近代法の基本原理のひとつである責任主義が見直されつつある時期なのではないか、と大風呂敷を広げてみるのです。

    責任主義とは、責任を追及されるに足る主体であるからこそ責任を追及するのだということで、故意と過失の違い(殺そうと思って人を死に至らしめた者と、殺す気はなかったのに結果的に人を死に至らしめた者とでは、前者をより責任が重いとします)もそうですし、故意がないどころか過失もないようであれば、どれだけひどい結果をもたらそうとも、刑事上はなんら罪とは認識されません。民事上も基本は同じで、俗に損害賠償・慰謝料請求として報道されるほとんどは民事上の不法行為ですが、故意または過失による損害の発生が基本的前提となります。

    さて、「今年大いに話題になったとある件」とは、先ごろ大阪府知事選挙への出馬を表明した橋下弁護士による光市・母子殺害事件弁護団を対象とした懲戒請求の煽動のことです。弁護士懲戒制度の趣旨に照らせば、この煽動が批判されるべきなのは明らかですが、この事案が一筋縄ではいかないのは、

    • 彼の煽動に反応した人々が決して少なくないこと
    • 多くの者の感情から乖離した法制度は維持不可能であるとの彼の見解そのものは、当を得たものであること

    の2点です。

    前者についていえば、本件において直接問題視されているのは、弁護団が最高裁において一審・二審の主張とは異なる主張をしているということですが、そのような訴訟の実態は本件についてのみ観察されるものではありません。弁護団が主張を変えたからといって多くの人々が憤るのでしたら、世にこの手の懲戒話があふれているはずです。にもかかわらず本件においてこのような広がりを見せたのは、その主張に刑法第39条が絡んでくるから、平たく言えば心身喪失・耗弱者がテーマだからだとwebmasterは認識しています。

    後者についていえば、まさしく本件において実現されたことで、故意又は過失による損害を賠償するとの民法上の原則は、原告のみならず多くの者の感情から乖離したがゆえに維持されず、過失責任と無過失責任とを分け隔てなく取り扱う立法がなされようとしています。光市の事件は司法判断であり立法行為と同一には論じられませんが、政府の判断の前提となったのは司法判断ですから、同根から発しています。仮に司法が自らの判断が立法によって覆されると予測し、それを回避したいのであれば、判断を枉げるより他ありません(本件で言えば、判例に照らせば過失とは認定できないようなものをも過失と認定して、無過失責任による賠償との結果は回避する、ということとなります)。

    光市事件にかんがみれば、本件の延長線上に刑法第39条の削除、ないし実質的に骨抜きにする立法が来たとしても不思議ではないでしょう。最近、とりわけネット上などで多く見られる同種の問題として、少年法(正確には刑法第41条の責任能力年齢規定)にまつわる議論があります。これらは、刑法学説としてはいずれも責任主義に基づき設けられたものという点で共通し、なぜ刑が減免されるかといえば、自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性を否定されているからです。

    「自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性」といってもわかりにくいかもしれませんが、同種の民事法の例を考えればよりわかりやすいでしょう。民法上、成年後見制度に関する規定が置かれていますが、この下では、精神上の障碍を有する成年被後見人がした法律行為(契約の締結等)は、成年後見人が取り消すことができます‐騙された場合とか脅された場合とか誤解していた場合に限らず、です(これらの場合、一般人でも取消し等により「なかったこと」にできます)。

    つまり、成年被後見人が十分な説明を受けて納得づくでした判断であっても、その判断が一般的に期待される程度の水準でない場合、法律上は判断には足りないものとして取り扱うことが可能とされているわけです。必然的に、判断の結果もまた引き受けるに足らず、として取り消し得るのが成年後見制度。売った買ったという話の結果すら引き受けることから免れているのですから、犯罪行為の結果としての刑罰を引き受けることから免れるのは当然だ、というのが民事・刑事を貫く近代法における責任主義の原理なのです。

    責任主義とは、言い換えればできるはずのことができなかったことを違法とするものです。過失とは注意すれば避けられたもので無過失とは注意しても避けられなかったもの、心神喪失者は違法行為をしたところで、そもそも適法行為を期待できかった者です。かつて聾唖者は民法上も成年被後見人(当時の用語でいえば禁治産者。また、民法については盲者もそうでした)適格であり、刑法上も刑の減免を受けることができました(刑法については、正確にはイン(病垂れに音)唖者)。

    これらは聾唖者には責任能力がない、つまりは一般人にはできる(と期待される)判断ができなくてもおかしくはないとの前提に立つもの。今となってはいずれも削除されていますが(刑法の規定でいえば、上述の第39条と第41条の間の第40条がそれでした)、それはこうした考え方が差別的であるとされたからでした。

    さて、昨今の心神喪失・耗弱者や少年法適用対象者に対して刑罰を科すべしとの議論は、この聾唖者の議論とはまったく逆を向くものです。聾唖者については、あたかも古代ギリシアやローマにおいて市民権を有する者に兵役義務があり奴隷にはなかったように、責任能力がないという差別の結果として責任能力が認められず刑罰の減免を受けました。ところが心神喪失者等についての議論は、恩典として刑罰の減免がなされているとの前提に立ち、刑罰の減免を廃止すべきというものとなっています。

    #話の枕である無過失責任についても、無過失には責任なしとの原則が、あたかも恩典であるかのごとく見られ、それが排除されているといえるでしょう。

    責任主義のない法体系とは、近代法の範疇を外れるものですが、果たしてこれは近代より昔への回帰なのか、それともまったく新しい時代の法体系を切り開くものなのか? webmasterには、現時点では判断がつきかねます。

    #責任主義の今日的意義について、webmasterの駄文なんぞではなくきちんとした議論をお求めの向きは、大屋雄裕「自由とは何か」をお薦めいたします。

    12/22/2007 (11:59 pm)

    MIAUは未だ失敗せず?

    Filed under: policymaking, law, WWW ::

    MIAUを政治運動として見ればおっしゃるとおり失敗したのでしょうし、次につなげるためには切込隊長さんのご指摘を活かすなり、大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」にお目通しいただいて政策実現の実際を知っていただくなりする必要があるのでしょう。しかし、これはあくまで政治運動として見れば、という前提あってのこと。前提が変われば、結論も変わってきます。

    前提が異なるのでは、とは実は切込隊長さんがまるで「私たちの意見が通らなかったからこの仕組みは不正義だ」とでも言いたいのかととおっしゃっている点に端的に現れているとwebmasterは見ています。「言いたいのかと」とお書きですが、実際に言いたいのでしょう(切込隊長さんとて承知の上での婉曲表現かもしれませんが)。さらには、仕組みが不正義だというにとどまらず、権利者団体側の存在そのものが不正義であると(無論、それらに組する文化庁の存在もまた)。

    切込隊長さんのご助言にせよ大沼本の最大の教訓にせよ、webmasterなりに本質を抽出するならば、妥協が重要だということとなります。政治運動であれば、たとえば敵対する主張の穏健派を取り込むために相対的に重要でない主張については妥協することは、ほとんどの場合において必然でしょう。100点満点を求めて支持を得られず何も実現できないよりは、50点でもいいから支持を取り付けて(消極的支持でも何の問題もありません)実現することを目指すのは、政治運動であるならば当然のことです。

    他方、自らを正義の側と認め不正義の撲滅を目指すならば、妥協は忌むべきものとなります。撲滅すべき対象として認識している者に対する妥協は、撲滅ではなく存続を認めることが前提になるわけですから、忌避されるのも当然です。つまりはイデオロギー闘争の場合ですが、自らがいかに正義であるかを説き、対する者がいかに不正義であるかを説いて自らの正義の普及に努めるのは、イデオロギー闘争としては当然のことです。

    MIAUの発起人の方々の主観的意図がどうであれ(主観的意図としては、政治運動だったのでしょう)、MIAUへの賛同者がそれなりに集まったのは、イデオロギー闘争として機能した側面があるからではないか、とwebmasterは思います。あるいは、政治運動としてはほとんど機能していなかったとも。主張への賛同者がそれなりに集まったことを見れば、イデオロギー闘争としては案外成功であったのではないでしょうか。

    以下は蛇足ですが、「それなりに集まった」ことは上記のとおり評価できるでしょうけれども、今後の展望を考えるとなかなか厳しいのではないでしょうか。というのも、デジタルデータとして取り扱われる主としてネット上での著作物流通については、関心を有している人々はほぼ今般で情報が行き届いていると考えられるからです。言い換えれば、今後はそもそも関心を持っていない人々をいかに囲い込むかの段階へ移っていくこととなります。

    MIAUが事実の積上げに基づく論理的な議論展開を図るのであれば、その手の囲込みははかばかしくは進捗しないでしょう。というのも、細かな事実関係を確認したり、議論の論理性にこだわったりするのは、あくまで関心を持っているからこそできることだからです。その手の言論が説得力を発揮するには、まずは関心を持ってもらわなければなりませんが、その手の競争において、

    • 今後のコンテンツ産業の興隆を見据え、中国がネット上での海賊版流通を促進するために著作権法の強化に反対しており、それに加担するのは「反日」「売国」勢力である、といったコピペ
    • 某動画投稿サイトの愛用者が一目惚れしたストリートミュージシャンのため、広告になるかと思いライヴ映像をアップしたところ、悪質なパロディが広がって彼女は傷つき嫌われてしまい、彼女のためにもそのパロディの根絶に立ち向かう、といったD社制作映画、

    なんてものに対抗していくのはなかなかしんどいでしょう。今般のパブリックコメントの数に希望を見出す向きが多いようですが、あれだけの活動を進めているにも関わらず「一万件にも届かない程度のパブコメしか集まらなかった」との切込隊長さんのご指摘はまことに当を得ていると思います。世の中には、数万人規模の集会や署名なんてものはざらにありますが、それが実を結ぶ確率を考えれば、ということです。

    09/24/2007 (8:43 am)

    野口旭(編)「経済政策形成の研究」

    Filed under: economy, policymaking, book ::

    #本エントリには不適切な表現が含まれていたため、現在公開を停止しております。後日、書き直したものを再公開する予定です(コメントの閲覧・書き込みは可能です)。

    07/03/2007 (4:57 am)

    大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」

    Filed under: policymaking, government, book, politics, law ::

    稲葉先生のご推薦を受けて読みました。結論から申し上げれば、伊勢崎賢治「武装解除」とセットで読め、ということとなります。相乗効果はてきめんでしょう。言い換えれば、伊勢崎本を読んで感銘を受けた方には、ぜひとも手に取っていただきたいのです。

    なぜセットで読むことをお薦めするかといえば、これら2冊は政治の現実という同じ対象を、まったく異なる観点からそれぞれ描いたものだからです。本書は、外部から政府(や国民、とするのが正確なところですが)に対して何らかの行動を求め、それを実現する過程を描いたもの。他方で伊勢崎本は、(現地人から見れば)政権内部の人間として政策をいかに実現していくのかを描いたもの。その交点に、世の中がどのように動いているかが鮮やかに立ち表れるでしょう。

    対象が同じだというだけでなく、著者の姿勢もまた共通の基盤を持ちます。つまりは徹底的なリアリストなのです。リアリストといっても人によって使われ方が違ったりもしますが、ここではwebmasterは、プライオリティを明確にし、実現すべきものは何で、実現できなくても我慢すべきは何かを冷静に判断できること、という姿を念頭に置いています。具体は本書を紐解いてもらうとしても、いわゆる評論家的な態度ではなく、何がしかを実現するとはどういうことなのか、ここまでバランスの取れた記録というのはなかなか見られません。

    したがって、著者は世間的なイデオロギー分布でいえば左に属するわけですが、右の人には左にもこのような実践があると知っていただくために、左の人には自らの為してきたこと/為さんとしていることを客観的に見直す機会を得るために、いずれであっても読む価値があるものと言えましょう。右の人が左の人間の書いたことと食わず嫌いをするにはあまりにも惜しいですし、左の人が本書を読んで違和感が生じる‐というのは生ぬるいかもしれません。なんとなれば、厳しい批判が左にも向けられているのですから‐ならば、それは次への発展の契機をつかんだに等しいのだとwebmasterは思います。

    webmasterにしても、著者が専門(の一部)として取り組んできた慰安婦問題について、この文脈で軽々しく意見を書くほどずうずうしくはありませんが(笑)、それ以外でも見解の相違はあります。たとえば、

    戦争責任に関する日独の比較は、評価が過度の単純化に傾きがちだという点を別にすれば、当たっている点が多い。ブラント、ヴァイツゼッカーにあたる国家指導者を、戦後の日本はもつことができなかった。社会全体の非ナチ化に相当する、国民全体による戦前の体制の見直しも行わなかった。とくに1970年代以降の西ドイツにおける戦争責任の内面化の努力は、日本よりはるかに徹底したものだった。

    p179

    というのは、ナチスを外部に見立ててすべての責任を押し付けることにより、自己を正当化している側面を無視していますし‐仮に昭和天皇が東京裁判で死刑になっていれば、あれは天皇制が悪かったのです、もう二度と天皇制には復帰しません、との「戦争責任の内面化」が日本においても行われていたことでしょう‐、また、

    法的な観点からみれば、女性国際戦犯法廷は、法定の構成をはじめ、裁判として満たさなければならない公平性の要件の欠如やその他多くの面で深刻な問題を抱えていた。また、法廷は当然のことながら国家の支持を欠き、判決を執行できない法廷だった。しかし、同法廷による審理と判決は、出席した多くの被害者に巨大なカタルシスを与え、さらにそれをニュースで知り、また出席者から聞いたほかの被害者にも大きな高揚感と満足感を与えた。

    pp219, 220

    というのは、かつて「法的な観点からみれば・・・多くの面で深刻な問題を抱えていた」といみじくも論じたことがある身としては、評価が逆(=カタルシスを与えたかもしれないが、あまりに法的な問題がありすぎた)だろうと思いますし、著者のたとえばクマラスワミ報告への否定的評価(pp149-151)との整合性も問われるものだといわざるを得ないでしょう。

    しかし、こうした話は本書の価値を低下させるものではありません。繰り返しにはなりますが、あくまで本書は著者が現実の政治と向き合ってその重要と思うことをさまざまな困難を乗り越えて実現した記録ですし、その中には、著者がアジア女性基金以前に取り組んだ諸運動から得た反省が確かに活かされています。著者の長年にわたる政治運動経験の精華、惜しげもなく公にしてくれているのですから、それを無視するというのではあまりにもったいないのです。

    なお蛇足ながら、webmaseterはアジア女性基金に寸志を出させていただいたのですが、このような整理を運営陣から示していただき、かつどのような形でお金が活かされたかを実感でき、わずかながらの協力をさせていただいた身としてうれしく思うのです。

    06/18/2007 (8:49 pm)

    白田先生、なんで国会議員に話をしないのですか?

    Filed under: policymaking ::

    …「制度改正ができるものならやってみろ」ということでしたが…

    そんなこと10年前からやってきたんですよ!

    博士論文で、著作権制度が産業保護奨励政策としての独占にすぎないことを明らかにした。

    博士論文の内容をくだいて一般向けにした、わかりやすい解説も書いた。

    あちらこちらの講演で語った。

    雑誌記事で一般に訴えた。

    オンライン記事でみなに訴えた。

    審議会に出て言いたいことを言ってきた。

    ロージナ茶会という組織も作った──茶会はすでに解散してしまいましたが──。

    パブリック・コメントも出した。

    私一人でできることは、ずっとやってきたんだ!

    「平成十九年六月十五日白田秀彰演説記録」(はてな匿名ダイアリー)(webmaster注:強調は、原文によります。また、脚注は省略しました)

    webmasterの職業柄、これから申し上げることを多くの人が実行し始めると不幸になるので(笑)、そう在ってほしいと願うわけでは決してないのですが、なぜ白田先生は有力政治家(担当大臣やその分野の大物族議員)ひとりに絞っての説得工作をしなかったのでしょうか。言っていないだけで試みたというのであればごめんなさいですが、それが大胆な政策変更を迫る際には、現代日本ではそれがもっとも成功確率の高い手法なのですけれども。

    良くも悪くも霞が関は一般に漸進主義ですから、名案と思われるアイデアであっても、それなりに世間的認知のないものを大胆に取り入れることはなかなかありません。小泉前総理の郵政民営化が典型ですが、他方、有力政治家の決断は、そうした漸進主義の相補をなす政策決定パスとして機能しています。霞が関ではなかなか合意が得られない政策が、大臣や与党の強い後押しにより実現するというのは、少なからず見られる事例です。

    それだけのエネルギ、頑張ったという自己満足を得たいがためというならばともかく、実現に少しでも近づきたいというのであれば、あちらこちらの講演で語り、雑誌記事で一般に訴え、オンライン記事でみなに訴え、審議会で官僚や学者に言いたいことを言い・・・というだけでなく、たったひとりでいいので、有力政治家を説き伏せることにその一部を割くことがよほどの近道だと思うのです。実際の政策決定過程に多少は携わる身としては。

    06/12/2007 (8:58 am)

    30秒だけ目を通していただければ・・・

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    あえて申し上げるならば、

    官僚「※?∀……(残念。タコ部屋で疲れ切った官僚には愚痴をこぼすだけのMPが残っていないようだ)」

    「30秒で理解できる日本の政策決定プロセス」(@リリカルゴルカルApple100% blog遺跡6/11付)

    ここは、アレじゃないでしょうか。

    「へんじがない ただのしかばねのようだ」

    05/09/2007 (9:19 am)

    大学院での政策エンジニアリング教育の可能性

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    先日のエントリを受けて、次のような興味深い言及をいただきました。

    ところで話が若干それますが、公共政策大学院のカリキュラムをみてみても、依然としてそのほとんどが理論系の科目であり、実践的な科目も名前だけが実践的にしてあっても中身は全然実践的ではないというのが以外と多かったです。bewaadさんのエントリで引用されていた、

    アメリカの大学等では「オマエの考えた政策(僕の場合はオークション設計)を今すぐ実行すべく政府に売り込めるか?」と聞かれたということですが、日本ではそのようなことはあまり聞かれないのではないでしょうか?

    ではないですが、このような真に実践的な政策論について議論するというのは、教員・学生双方の質という点でかなり難しいのが現状ですし、その意味で現状では就職活動でも学部卒と扱われても仕方ないかなという気がします。霞が関就職を目指す学生の多くは入学後から公務員試験勉強中心の生活になるので、振り返ってみてkoukyo政策大学院で何を学んだのかということを考えてしまった、となることが多いらしいです(伝聞ですが)。論文執筆なども必須ではないので、そこまで一つのテーマに打ち込むことがないまま修了してしまうこともありうるわけで、そのような状態ではとても院卒としての利点をもたらすことはできないでしょう。もちろん一つ一つの授業や事例研究なりに打ち込むことは可能ですが、はたして外部にそれを説明して説得力があるのかどうかはもう個人の資質次第というところでしょうね。

    「公共政策大学院雑感2」(@Koukyo政策大学院修了生の蹇蹇録5/7付)

    エンジニアリングという言葉は(svnseedsさんが訳された)Mankiwのテキストからのパクリではありますが、その表題である「科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者」ということからいえば、公共政策大学院はエンジニア志望者を集めつつも、科学者養成のカリキュラムしか(現時点では)持っていない、ということになりましょうか。医学でいえば研究医と臨床医ということになりましょうが、踊る大走査線風にいえば会議室じゃなくって現場ではどう対処すべきか、ということの体系化がなされていないわけです。もちろん、霞が関においても。

    アメリカではどうか、というのはMankiwのテキストに依拠すれば日本よりは期待できる状況にあるとはいえ、Public PolicyやPublic Administrationにしても、それほど実践的な話をしているわけではない、というのはビジネススクールと経営との関係と大差ありません。当サイトの先のエントリでは経済学についての議論をしていましたが、他の学部、たとえば法学部にしても、先日紹介した江頭・薄井本は相当程度そうした分野に近接していますが、法学部のカリキュラムの中ではまず見られない話であるのも事実です。

    #アメリカの実際について、ご家族もまた当サイトをご覧いただいていらっしゃる(ありがたいお話です)というyyasudaさんに、詳しいお話をおねだりさせていただきます。

    ではエンジニアリングといって何をどうするかというお話ですが、どのような現場かと言えば、たとえば次のようなものです。

     【質問】
     武装勢力の武装解除は,具体的にはどのように進められるのか?

     【回答】
     「アメとムチ」を基本とし,あらゆる方面で小さな交渉による「根回し」を際限なく行うのみだという.
     以下引用.

     紛争地帯において,武装勢力を武装解除させる交渉の基本は,「アメとムチ」である.

     つまり,
    「このまま抵抗を続けても,この国は変わっていくから,いずれ君達の居場所はなくなる」
    と脅しをかけ,同時に,
    「もし今,武装解除するなら,犯した罪は不問にする」
    などの政治的なインセンティヴで譲歩する.

     アメを見せなければ交渉相手は動かない.

     しかし,これには慎重な根回しが必要だ.

     内戦中に虐殺を指揮した司令官などの場合,恩赦のやり方を間違えれば,被害住民の怒りに油を注ぐ事になりかねない.

     実は,紛争解決の仕事で派手な交渉の場面など何もなく,黒子としてあらゆる方面で小さな交渉による「根回し」を際限なく行うのみである.

     現政権の長と反政府ゲリラのリーダーが握手を交わすシーンが,メディアで流される裏には,虱を潰すような地味な努力が隠れているのである.

    伊勢崎賢治 from SAPIO 2004/6/23号,p.24

    軍板常見問題/内戦

    政策決定・実施過程とは調整・妥協の繰り返しだというと過剰に現状肯定的であるように思われてしまうわけですが、結局現実の政策はそこから抜け出せるわけではない、ということがこの伊勢崎さんのお話に垣間見えているとwebmasterは思います(蛇足ながら、伊勢崎さんの「武装解除」はぜったいお薦めです)。内戦がようやく終了したような発展途上国だからそのようなことになるのであって、先進国では違うんだ、というようなことではありません。

    実際に「黒子としてあらゆる方面で小さな交渉による『根回し』を際限なく行う」ということは、最後は実践経験を重ねて身につけるしかないわけで、教育機関において交渉技術その他をあれこれ磨いてもらうということは、それほど重要ではないでしょう(ロールプレイなどが課目のひとつとしてあるのは有益でしょうけれども)。そういう意味での優秀さは、必ずしも求められてもいないはずです。

    むしろ、考慮すべき(≒さまざまな調整対象が好き勝手に主張する)論点が数多くあり、それらが相互に対立しているような場合に、政策の諸要素にきちんとプライオリティを設定し、何であれば妥協でき、何は妥協すべきでないのか、という思考の訓練が必要であるようにwebmasterは思います。現場で調整技術のみが磨かれた場合、合意できればその内容は問わないということにもなりかねないわけで、高等教育として叩き込むことの価値がここにはあると言えるのではないでしょうか。

    究極的には、これが十分に成熟して公務員試験の科目になれば、受験者が能動的に学んでくれるわけで、効率よく普及が可能になるわけですが・・・。

    04/26/2007 (7:08 am)

    長崎市長射殺問題と「民主主義への挑戦」

    Filed under: policymaking, politics, law ::

    4/194/20の続きで、関係するいちごでの書き込みについてです。

    #なお、当サイトにご関心をお寄せいただくのはうれしいのですが、いちごを使うのは板違いでもあり、当サイトに直接要望をお寄せいただくのではいかがでしょうか>書き込まれた方。

    53: 名無しさんの冒険  2007/04/24(Tue) 01:56

    びわーど殿へ質問

    先日の政治家の銃撃事件に関連して、氏の意見を拝聴したいと考えています。氏の忌憚の無いご意見を聞かせていただきたく思います。性質上、質問の内容が非常に物騒なものになっていますが(笑)、100%仮想設例で、悪意は全く無く、頭の体操をするためのものに過ぎないことは明言しておきたいと思います。

    X氏は現在地方自治体のトップとして任に当たっており、現在は選挙期間中と仮定させて下さい。

    1. X氏に対して、表向きは競争入札になっているダム建設に関して、「入札させなければ殺す」と書かれた銃弾入りの封書が郵送された。実際、同様の事件で隣県の地方公共団体のトップが暗殺された。この事例において、当該脅迫行為は「民主主義への挑戦」か。

    2. 1の事例で、実際にX氏が暗殺されたらどうか。

    3. 1の事例と同じ図式ではあるものの、地域にとって政治的にも経済的にも非常に重要な意味を持つダム建設をするか否かという事柄に関して第三者が脅迫行為を行ったらどうか。

    4. 3の事例で、実際にX氏が暗殺されたらどうか。

    5. 個人的利得目的が実現できず、その腹いせに首長を暗殺した場合には、「民主主義への挑戦」ではなく、せいぜい「公正な職務執行の妨害」にとどまるとの見解がある。しかし、「公正な職務執行の妨害」と「民主主義への挑戦」とは切り分けられるものだろうか。いささか恣意的な定義かもしれないが、「民主主義」の本質が「被統治者の意思により統治者が選出され、政策形成に被統治者の意思を反映する」ことだと考えると、個人的な利得目的であるか否かを問わず、自己の意思が容れられないことをもって暗殺が起きるような状況になれば、為政者の政策形成に少なからぬ萎縮効果が働き、民主主義の根幹が掘り崩されるということになりはしないだろうか。

    実際に、重要な政策決定権限を握っている状況にあったらどう考えるかということをお聞かせ願いたい。

    いちご経済/経済学板「経済ブロガーと愉快な仲間たち」スレ・レス53

    これらの点については、直接のお答えにはならないかもしれませんが、脅迫なり暴力なりの対象が首長かどうかで異なるのかによって話が異なると考えます。どのような政策課題であれ、それぞれの分掌においてそれぞれが職責を果たす際、およそすべての者に対する脅迫・暴力を「民主主義への挑戦」だと定義するのであれば、それはそうなのでしょう。

    しかし、相手が首長だから、選挙期間中だからということでのみその定義が満たされ、首長でない者、あるいは首長であっても選挙期間中でなければ「民主主義への挑戦」でないとするなら、それはお示しの「『民主主義』の本質」を損なうかどうかとは別の価値観が混入していると言わざるを得ないでしょう。この文脈上、首長はあくまで機関(天皇機関説でいう機関と同じ趣旨です)であって、同様の機能を果たす機関と量的な差はあれど、質的に差を見出すべくもないのですから。

    結局のところ、民主政体制下においては、公正な職務執行は民主的な意思決定に基づき行われるものであり、決定された意思の実現を損なうものはすべて「民主主義への挑戦」であるとするのであれば、そうした要素が含まれていることは否定できません(公務執行妨害罪の保護法益にしても、究極的にはそのように説明できないわけではありません)。ただし、この手の話は、議論の枠組みとして言えば、実は刑法学において長らく揉まれ続けてきたことでもあります。

    例えば人を死に至らしめた場合、その行為がいかなる罪に該当するかといえば、殺人罪に限られるものではなく、傷害致死罪や業務上過失致死罪、過失致死罪など、その動機や行為の態様に応じてさまざまです‐わかりやすい例を挙げるなら、世の中で一般的に言われる「人殺し」よりも、刑法上の「殺人罪」は狭い概念なのです。今般の議論に応用するなら、直感的に「民主主義への挑戦」と思われるものであるとしても、それが法的に批判すべき「民主主義への挑戦」であることと直結するものではありません。加えて、刑法は原則として罪となるべき行為を故意犯に限り、つまりは結果責任は基本的には問われません。

    もちろん、世の中における非難可能性というものが、刑法上のそれに縛られなければならない理由はありません。刑法は刑法、それ以外はそれ以外として、「民主主義への挑戦」なるものを定義することも否定はされません。しかし、一応は刑法というものは、世の中で人がなす行為について、どのようなものがどのように非難されるべきかについてのカタログのひとつとして、長らく受け入れられ続けたものではあります。

    何らかの行為が社会的に非難されるべきものであるとして、それがどのような理由で、どの程度の非難を受けるべきかを考えるに当たって、刑法の考え方を参照するのは有益であるとwebmasterは考えます。結果において捨て去るとしても、少なくとも、批判的検討の末として損はないのではないでしょうか。

    04/24/2007 (5:20 am)

    安倍総理の職歴と総理補佐官たちと経済財政諮問会議やその他諸々官邸系会議

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    権丈先生の最新の勿凝学問(77)を読んでいて、ふと思いついた話。

    勿凝学問はリンク先をお読みいただくとして、webmasterの考えるきっかけとなったのは、経済財政諮問会議で社会保障に関する試算を行うという話です。権丈先生は専門家が含まれていない経済財政諮問会議でそんなことをするなんて、という部分に関心を持たれたわけですが、webmasterはそこから若干それて、ではなぜそのようなことが行われるのかに思いが至りました。

    というのも、こと経済財政諮問会議に限らず、さまざまな会議が内閣官房等に設けられ、そこで従来であれば各省庁で検討されるようなテーマが検討されているというのが安倍内閣の特色のひとつといえましょう(代表的な例で言えば、教育再生会議)。ちょうど昨日付の日経金融新聞に次のような記事がありましたが、

    「美しい国づくり企画会議」「アジア・ゲートウェイ戦略会議」「地方分権改革推進会議」――。安倍晋三政権のもとで発足した官邸主導会議に、霞が関の中央官庁が振り回されている。

    会議を支える事務局として人員を奪われるうえ、各会議が掲げる戦略の目玉として、省庁が独自に温めてきたアイデアが吸い取られるケースが出てきたからだ。「政策を横断的に検討するはずの会議が、かえって個別の政策の検討速度を鈍らせている」との冷めた声があがっている。

    (略)

    それでも会議で具体的な政策立案が進めば、事務局派遣もムダではない。だが「横断的に検討する会議が多すぎ、検討課題も重複する。内容はまとまりにくい」(財務省幹部)。省庁を横断して課題の優先順位や統合計画をまとめるはずの会議そのものが、課題のすみ分けができない皮肉な状況だ。

    日経金融「乱立する「首相会議」/官庁、人材取られ不満」

    概ねそんなところだろうとはwebmasterも思います。先日も、

     政府は19日、教育問題を議論している政府の六つの有識者会議の代表者を集めた合同会議を設置し、各会議で共通の論点となっている大学・大学院の高等教育改革をめぐる課題を集中的に議論する方針を決めた。

    (略)

     合同会議は教育再生会議が呼びかける形で、経済財政諮問会議、アジア・ゲートウエー戦略会議、イノベーション25戦略会議、総合科学技術会議、規制改革会議の代表者が参加する。

    (略)

     各会議はそれぞれの観点から大学・大学院改革の議論を行っているが、「議論の内容が重複したり、方向性が逆になりかねない懸念もある」(政府筋)のが実情だ。

    (略)

     このため、一部では各会議の主導権争いも絡み、議論が紛糾するのではないかとの見方も出ている。自民党内では、以前から「首相官邸に会議が多すぎてわかりにくい」との指摘があったことから、「今度の会議が取りまとめ役を担うのでなく、屋上屋を架すことにならなければいいが」「中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)との調整も必要だろう」などと、懸念する向きもある。

    読売「教育6会議が合同で協議 政府、方針統一図る」

    というようなことがありましたが、こういうことをしている方々に霞が関の縦割りがどうのこうのといった批判はしてほしくないなぁ(笑)、という感情的な話はさておくとしても、それほど効率的に機能しているようには見えません。

    この手の流れは小泉政権の頃からありましたが、小泉政権(さらに言えば、官邸機能の強化等を打ち出した橋本政権)で現状が理想に近いとの認識がありつつも、まだそこまでの機運が醸成できなかったのでやむなく諦めていたのか、それとも現状はいわば行き過ぎであるのか、webmasterは後者ではないかと思うのです。そう考える理由は、安倍総理、及び安倍政権の性質にあります。

    安倍総理の職歴

    安倍総理の職歴において顕著なのは、大臣ポストは官房長官しか経験しておらず、副大臣・大臣政務官ポストまで拡げても官房副長官しか経験していないということです。つまり、閣内に入ったといっても、官邸にしかいたことがないわけです。

    かつては総理総裁候補の条件として枢要な大臣ポスト(外務大臣、財務(大蔵)大臣、経済産業(通商産業)大臣など)の経験があることが挙げられ、したがって総理にはそれらの経験を積んだ者が就任していました。小泉前総理はそれらのポストには就かなかったものの、厚生大臣(2回)と郵政大臣を経験しています

    大臣経験があると何がわかるか、それはいろいろとあるでしょうけれども、この文脈において重要なのは、大臣とは本当に力のあるポストであるということです。外部からは、大臣とは官僚の操り人形だなどということがよく言われますが、政策において大臣がしたいといえば、事務方はそれが法律違反でもない限りはなるべく意を叶えようとしますし、人事にしても、大臣の意向でいくらでも左右されます。

    それがわかっているなら、仮に総理の指導力を高めようとした場合、各大臣をきちんとグリップした上で大所高所の指示を出し、具体的な話は各省庁においてやらせる、というやり方があることは自明です。小泉前総理にしても、道路公団や郵政公社の民営化という政権の主軸に据えた話についてはその手の会議を設け、竹中元経済財政政策担当大臣の思い入れのあるテーマ、すなわちアンチ財務省的な話を諮問会議で集中的に取り上げさせはしても、あとはそれなりに各大臣=各省庁に「丸投げ」もしていたわけです。

    #竹中元大臣から与謝野前大臣への交代に伴い諮問会議の路線が変わったのは、それが小泉前総理の関心事項ではなく、竹中元大臣の関心事項だったことの表れだとwebmasterは考えています。

    ところが、安倍総理は各省庁のトップとしての大臣経験がないので(官房長官は官邸(内閣官房)のナンバーツーです)、おそらくはそれが見えていません。各大臣にだって、大臣になるには政治家としてそれなりの格が求められますから、当然ながら自己の定見なりプライドなりがあり、官僚があれこれ知恵をつけられるなんてことがなくても、独自路線を求めたりもするものです。

    言い換えれば、明示的な総理の指示には当然従うとしても、自らの裁量に任されたと判断すれば、なるべく自分のカラーを出そう、あるいはいちいち総理の意向を探ったりせずに判断しようとすることもあり得ます(言われていないことについても総理の真意は何かを探りその実現にできるだけ努めようとする大臣もいます。このあたりはそれぞれの人格・性格によるでしょう)。大臣経験があればその辺りの機微もわかるでしょうけれど、官邸から各大臣・各省庁を見た経験しかなければ、これらは各省庁は思ったとおりにならず、官僚が大臣を取り込んでいる印だ、と思うこともあるでしょう。

    だからこそ、なるべく自らの目が直接行き届くところですべてを決したがるのではないかと、webmasterは思うのです。よくよく考えてみれば、既に引用したように、内閣官房に会議を作ったところで、その事務方になるのは官僚です。総理→各責任者→官僚という統制の仕組みは、官邸直轄であろうと各省庁であっても変わらず、違いは「各責任者」が大臣なのかそうでないのかの違いに過ぎません。にもかかわらず、「各責任者」が大臣だと官僚の操り人形に堕すというのは、大臣職の実態がわかっていないように見えるのです。

    総理補佐官たち

    そもそも総理補佐官を数多く置いたのも、以上のような大臣=官僚の操り人形論に影響されてのことではあったのでしょう。しかし、いったん制度が運用に移れば、当初の意図どおりには必ずしも動きません。

    安倍政権での総理補佐官は、任命当時から各大臣との権限関係が不明確であること等が指摘されてきました。同じ分野で総理補佐官と各大臣とが競争するならば、各省庁という手足となる組織を持っている大臣が有利なのは当たり前のこと。自然体でいけば、明確な特命事項がない限り、総理補佐官の存在感が薄れていくのは必然です。

    しかし、総理補佐官に任命された者は、それが政治家であればなおさら、そのような境遇に甘んじることはできないでしょう。いきおい、総理補佐官たちは、名が売れそうな話があればそれに飛びつき、その存在感を示そうとするでしょう‐各大臣との競争に限らず、総理補佐官同士での功名争いとしても。

    まして、各省庁という執行組織を持たない総理補佐官には、ルーチンワークがありません。つまり、何か問題を見つけてきてはそれに取り組むということでもしない限り、はっきりいえば暇なわけです(笑)。功成り名を遂げた人が就く名誉職というならばさておき、総理補佐官を今後の政治家としての上昇のステップにしようと考えていれば、暇でよかったなぁ、なんて気分になるはずもありません。むしろ暇であればあるほど何かがしたくて仕方がない心理状態になっても、それは極めて自然なことでしょう。

    既述のような各会議のバッティングは、それぞれが明確な統一的意図の下で立ち上げられたのであれば、おそらくは事前にきちんと担当が整理され生じないでしょう。バッティングが生じているということは、逆に明確な統一的意図がなく、まちまちに立ち上げられたことを示唆します。

    結局、各大臣・各省庁相手では統制がとれず、身近な官邸勤務者であれば統制が効くとの事前の意図に反し、各補佐官がそれぞれの関心に基づいて「権限争い」(笑)を繰り広げた結果、霞が関を非難する定番のラベルである「縦割り」が霞が関以上に似つかわしくなってしまったのでしょう。かつて今村都南雄「官庁セクショナリズム」の書評で書いたように、縦割りは遍在するのであって、霞が関の病理としてのみ解されるべきものではないのです‐おそらくは、現在の官邸の混乱は、各省庁の権限争いによるそれよりも見通しが悪いものでしょう。見通しの良し悪しは、政治的にいいか悪いかには、必ずしも直結するものではないにせよ。

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