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  • 12/26/2007 (11:59 pm)

    再び薬害C型肝炎問題を論ず。

    Filed under: law ::

      薬害肝炎、救済対象は裁判所が認定…法案概要固まる(読売)

     ここに至るまでの経緯についてはいろいろと思うところもあるのだけれども、軽々に発言するのは好ましくないと思料されるのでとりあえず差し控えるが、法律案の方向性について思ったことを、2点ほどメモ。

     1点目は、国の責任を明記することについて。目的規定の中で明らかにするか、あるいは(議員立法にありがちな)前文を置く形にしてそこで謳う、といったところだろうか。

     2点目は、補償対象となる被害者の認定作業を行う主体を裁判所とすることについて。当初検討したと記事にあるように、政府内に専門委員(会)を設置してその事務を行わせるというのが、発想としては素直。行政が行う給付等について、その基礎となる事実認定の部分を裁判所に行わせるというのは、これまでに類似の制度があっただろうか…。まあ、法律でそう書けばそういう制度ができるということかも知れないが、制度設計の在り方としては興味深く思われるところ。

    続・航海日誌(12/26付)

    前者については、先日それを枕に議論を展開してみましたが、そのものを論ずるとすれば、branchさんがお示しのようなあたりが適当な着地点なのでしょう。真正面から無過失の相手にまで賠償責任を認めてしまえば、先日の議論のような地獄の釜の蓋を開けてしまうことにつながります。既往の法体系の枠内で解決を図るならば、司法判断や政府の和解案によることとなりますが、

     和解協議の中で、政府は20日に、未提訴者も含めた薬害被害者を血液製剤の投与時期で限定して和解金を支払い、残る被害者には30億円を基金活用する「全員救済」方式を提案。被害者全員の「一律救済」を求める原告らは「患者の線引きだ」と反発していた。

    産経「議員立法で「一律救済」表明 薬害肝炎で首相」

    とのことで、それを蹴飛ばしたからこその現状です。

    だからといって無過失責任を前面に出すのも、既存の法体系からは明らかに受け入れ不可能といわざるを得ません(そんなことをすれば、どこまで賠償責任が広がるものやら・・・)。そうした中、前文や目的規定で責任を規定するというのは、実質的には損害賠償であるにもかかわらず法的には損害賠償ではない補償・救済を用いることにより、損害賠償の対象でない者をも法の枠内に取り込むためのいわば方便で、原告の主張とこうした法体系の枠組みがギリギリで共存可能な唯一の解ではないでしょうか。

    後者については、webmasterはあまり気にしていなかったのですが、考え始めると、branchさんのお言葉どおりなかなか興味深い論点が複数あります。さすがはbranchさん、いいところに目をつけていらっしゃいます。主体が裁判所であったとしても、裁判(訴訟)として取り扱うわけではないでしょうから、一般の訴訟法に基づく手続ではなく別の手続を考えなければならないのですが、これがなかなか悩ましくあります。

    現状、裁判でない裁判所の取り扱い事項の一般法としては、非訟事件手続法がありますが、過料など法的には軽めの事象を取り扱うもので、裁判所としてもこれに基づき判断しろといわれても困るでしょうから、おそらくは立法において白地で書いていかざるを得ないものと予想されます。では、どう書いていくか。

    訴訟の枠組みに照らして考えると、まず管轄権をどうするかが難しいところ。裁判所の対応能力を考えれば、知財高裁のように東京のみとしたいでしょうが、全国の患者に東京に出て来いというわけにもいかないでしょうし、かといって第三者委員会のように専担として地方まで出張っていくのも裁判官の負担を考えれば難しく、となれば全国各地で受け入れざる形が無難でしょう。かといって、すべての地方裁判所(まして簡易裁判所)で取り扱う体制を整備することなど不可能でしょうから、webmasterの予想としては各地の高裁管轄とするのでは、というものとなります‐原告からは不評かもしれませんが。

    次の問題は、裁判官の当事者能力です。訴訟となれば原告vs被告や検察vs被告人の対審構造がおなじみですが、認定作業において患者に対置される当事者がいるとも思えず(たとえば政府が反対尋問します、なんてスキームになるはずもなく)、原告の主張を裁判官が聞いて職権認定、という形になるでしょう。裁判官は法律のプロでしかないのですが、そんな裁判官が世のあらゆる争いごとを裁くことができるのは、前記の対審構造を前提に、両当事者がそれぞれの立場でプロの見解を集めてきて、そのいずれがもっともらしいかを判断しさえすればよいとの建前があるからこそです。第三者委員会であれば、メンバーに医者や研究者も入るでしょうから自ら職権認定をするだけの能力もあるでしょうけれども、裁判官にはまず間違いなくそんな能力はありません。このところをどうするのか。

    更なる問題として、上述のとおり裁判官に当事者能力がないとすれば、訴訟においても鑑定人を求めるように、他に専門家を求めるより他に道はありません。しかし、訴訟における鑑定人は、上記の対審構造を前提に反対尋問等でチェックされることにより、一方に偏ったものではないものとして取り扱われます。対審構造がない中で、専門家の証言の中立性・客観性をどのように担保するのか、専門家を呼ぶことで上記問題を解決するとしても、一難去ってまた一難という制度設計となります。

    これらの問題は、仮に内閣提出法案であれば内閣法制局がとことん詰めるのでしょうけれども、何せ本件は議員立法です。議員立法の中には役所が実質的な当事者として携わるものがあるにせよ、本件は経緯を考えれば役所のそうした関与は許されないでしょうから、役所がこっそり内閣法制局に相談する、というわけにも行きません。担当される議員の方は、その方が法律論に詳しければ詳しいほど、これらの問題に悩まされることでしょう・・・。

    12/25/2007 (11:59 pm)

    急がば回れの著作権議論

    Filed under: law, WWW ::

    違法サイトからのダウンロード違法化等については、自らの主張を正義と確信して言い張っているだけではねぇ、といった趣旨のことを書いてきたわけですが。

    webmasterの書くことはわかりづらいという方々に置かれましては、ぜひ上記にお目通しいただければ。はてなブックマークでも注目を集めていますから、何をいまさら、という向きも多いでしょうけれども。

    12/24/2007 (11:59 pm)

    微妙な地域のサンタクロース

    Filed under: WWW ::

    毎年恒例のNORADによるサンタクロース追跡に関して、標記につきiori3さんがさまざまな例を取り上げていらっしゃいますが、ひとつ見落としがあるのでは、とwebmasterは思います。追跡が始まってからまもなく、なんとサンタクロースは・・・

    »

    12/23/2007 (11:59 pm)

    責任主義の再検討?

    Filed under: policymaking, law ::

     薬害肝炎訴訟の和解協議をめぐり福田康夫首相は23日、原告側が求める被害者の「全員一律救済」を盛り込んだ法案を今国会に議員立法で提出する考えを明らかにした。首相官邸で記者団に語った。大阪高裁で行われている和解協議が難航しており、政治主導で問題解決を目指すことを決意した。原告側は「大きな一歩、問題解決につながることを期待する」との声明を発表した。首相が「一律救済」を決断したことで、肝炎問題は解決に向け、新たな局面に入った。

    産経「議員立法で「一律救済」表明 薬害肝炎で首相」

    薬害問題そのものは、政治判断ですから官僚が口を出すのも僭越な話です(明らかな問題がある、というのでない限り)。他方、本件が今後どのような影響をもたらすかについては、少し触れておきたい問題があります。それがタイトルに掲げた責任主義の話です。

    責任主義とはどちらかといえば刑事において広く用いられ、他方で本件は民事に属する事柄ではあります。しかしながら、ちょうど今年大いに話題になったとある件‐それは刑事の問題です‐においてwebmasterは気になることがあり、それとの連想で、実は今は、近代法の基本原理のひとつである責任主義が見直されつつある時期なのではないか、と大風呂敷を広げてみるのです。

    責任主義とは、責任を追及されるに足る主体であるからこそ責任を追及するのだということで、故意と過失の違い(殺そうと思って人を死に至らしめた者と、殺す気はなかったのに結果的に人を死に至らしめた者とでは、前者をより責任が重いとします)もそうですし、故意がないどころか過失もないようであれば、どれだけひどい結果をもたらそうとも、刑事上はなんら罪とは認識されません。民事上も基本は同じで、俗に損害賠償・慰謝料請求として報道されるほとんどは民事上の不法行為ですが、故意または過失による損害の発生が基本的前提となります。

    さて、「今年大いに話題になったとある件」とは、先ごろ大阪府知事選挙への出馬を表明した橋下弁護士による光市・母子殺害事件弁護団を対象とした懲戒請求の煽動のことです。弁護士懲戒制度の趣旨に照らせば、この煽動が批判されるべきなのは明らかですが、この事案が一筋縄ではいかないのは、

    • 彼の煽動に反応した人々が決して少なくないこと
    • 多くの者の感情から乖離した法制度は維持不可能であるとの彼の見解そのものは、当を得たものであること

    の2点です。

    前者についていえば、本件において直接問題視されているのは、弁護団が最高裁において一審・二審の主張とは異なる主張をしているということですが、そのような訴訟の実態は本件についてのみ観察されるものではありません。弁護団が主張を変えたからといって多くの人々が憤るのでしたら、世にこの手の懲戒話があふれているはずです。にもかかわらず本件においてこのような広がりを見せたのは、その主張に刑法第39条が絡んでくるから、平たく言えば心身喪失・耗弱者がテーマだからだとwebmasterは認識しています。

    後者についていえば、まさしく本件において実現されたことで、故意又は過失による損害を賠償するとの民法上の原則は、原告のみならず多くの者の感情から乖離したがゆえに維持されず、過失責任と無過失責任とを分け隔てなく取り扱う立法がなされようとしています。光市の事件は司法判断であり立法行為と同一には論じられませんが、政府の判断の前提となったのは司法判断ですから、同根から発しています。仮に司法が自らの判断が立法によって覆されると予測し、それを回避したいのであれば、判断を枉げるより他ありません(本件で言えば、判例に照らせば過失とは認定できないようなものをも過失と認定して、無過失責任による賠償との結果は回避する、ということとなります)。

    光市事件にかんがみれば、本件の延長線上に刑法第39条の削除、ないし実質的に骨抜きにする立法が来たとしても不思議ではないでしょう。最近、とりわけネット上などで多く見られる同種の問題として、少年法(正確には刑法第41条の責任能力年齢規定)にまつわる議論があります。これらは、刑法学説としてはいずれも責任主義に基づき設けられたものという点で共通し、なぜ刑が減免されるかといえば、自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性を否定されているからです。

    「自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性」といってもわかりにくいかもしれませんが、同種の民事法の例を考えればよりわかりやすいでしょう。民法上、成年後見制度に関する規定が置かれていますが、この下では、精神上の障碍を有する成年被後見人がした法律行為(契約の締結等)は、成年後見人が取り消すことができます‐騙された場合とか脅された場合とか誤解していた場合に限らず、です(これらの場合、一般人でも取消し等により「なかったこと」にできます)。

    つまり、成年被後見人が十分な説明を受けて納得づくでした判断であっても、その判断が一般的に期待される程度の水準でない場合、法律上は判断には足りないものとして取り扱うことが可能とされているわけです。必然的に、判断の結果もまた引き受けるに足らず、として取り消し得るのが成年後見制度。売った買ったという話の結果すら引き受けることから免れているのですから、犯罪行為の結果としての刑罰を引き受けることから免れるのは当然だ、というのが民事・刑事を貫く近代法における責任主義の原理なのです。

    責任主義とは、言い換えればできるはずのことができなかったことを違法とするものです。過失とは注意すれば避けられたもので無過失とは注意しても避けられなかったもの、心神喪失者は違法行為をしたところで、そもそも適法行為を期待できかった者です。かつて聾唖者は民法上も成年被後見人(当時の用語でいえば禁治産者。また、民法については盲者もそうでした)適格であり、刑法上も刑の減免を受けることができました(刑法については、正確にはイン(病垂れに音)唖者)。

    これらは聾唖者には責任能力がない、つまりは一般人にはできる(と期待される)判断ができなくてもおかしくはないとの前提に立つもの。今となってはいずれも削除されていますが(刑法の規定でいえば、上述の第39条と第41条の間の第40条がそれでした)、それはこうした考え方が差別的であるとされたからでした。

    さて、昨今の心神喪失・耗弱者や少年法適用対象者に対して刑罰を科すべしとの議論は、この聾唖者の議論とはまったく逆を向くものです。聾唖者については、あたかも古代ギリシアやローマにおいて市民権を有する者に兵役義務があり奴隷にはなかったように、責任能力がないという差別の結果として責任能力が認められず刑罰の減免を受けました。ところが心神喪失者等についての議論は、恩典として刑罰の減免がなされているとの前提に立ち、刑罰の減免を廃止すべきというものとなっています。

    #話の枕である無過失責任についても、無過失には責任なしとの原則が、あたかも恩典であるかのごとく見られ、それが排除されているといえるでしょう。

    責任主義のない法体系とは、近代法の範疇を外れるものですが、果たしてこれは近代より昔への回帰なのか、それともまったく新しい時代の法体系を切り開くものなのか? webmasterには、現時点では判断がつきかねます。

    #責任主義の今日的意義について、webmasterの駄文なんぞではなくきちんとした議論をお求めの向きは、大屋雄裕「自由とは何か」をお薦めいたします。

    12/22/2007 (11:59 pm)

    MIAUは未だ失敗せず?

    Filed under: policymaking, law, WWW ::

    MIAUを政治運動として見ればおっしゃるとおり失敗したのでしょうし、次につなげるためには切込隊長さんのご指摘を活かすなり、大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」にお目通しいただいて政策実現の実際を知っていただくなりする必要があるのでしょう。しかし、これはあくまで政治運動として見れば、という前提あってのこと。前提が変われば、結論も変わってきます。

    前提が異なるのでは、とは実は切込隊長さんがまるで「私たちの意見が通らなかったからこの仕組みは不正義だ」とでも言いたいのかととおっしゃっている点に端的に現れているとwebmasterは見ています。「言いたいのかと」とお書きですが、実際に言いたいのでしょう(切込隊長さんとて承知の上での婉曲表現かもしれませんが)。さらには、仕組みが不正義だというにとどまらず、権利者団体側の存在そのものが不正義であると(無論、それらに組する文化庁の存在もまた)。

    切込隊長さんのご助言にせよ大沼本の最大の教訓にせよ、webmasterなりに本質を抽出するならば、妥協が重要だということとなります。政治運動であれば、たとえば敵対する主張の穏健派を取り込むために相対的に重要でない主張については妥協することは、ほとんどの場合において必然でしょう。100点満点を求めて支持を得られず何も実現できないよりは、50点でもいいから支持を取り付けて(消極的支持でも何の問題もありません)実現することを目指すのは、政治運動であるならば当然のことです。

    他方、自らを正義の側と認め不正義の撲滅を目指すならば、妥協は忌むべきものとなります。撲滅すべき対象として認識している者に対する妥協は、撲滅ではなく存続を認めることが前提になるわけですから、忌避されるのも当然です。つまりはイデオロギー闘争の場合ですが、自らがいかに正義であるかを説き、対する者がいかに不正義であるかを説いて自らの正義の普及に努めるのは、イデオロギー闘争としては当然のことです。

    MIAUの発起人の方々の主観的意図がどうであれ(主観的意図としては、政治運動だったのでしょう)、MIAUへの賛同者がそれなりに集まったのは、イデオロギー闘争として機能した側面があるからではないか、とwebmasterは思います。あるいは、政治運動としてはほとんど機能していなかったとも。主張への賛同者がそれなりに集まったことを見れば、イデオロギー闘争としては案外成功であったのではないでしょうか。

    以下は蛇足ですが、「それなりに集まった」ことは上記のとおり評価できるでしょうけれども、今後の展望を考えるとなかなか厳しいのではないでしょうか。というのも、デジタルデータとして取り扱われる主としてネット上での著作物流通については、関心を有している人々はほぼ今般で情報が行き届いていると考えられるからです。言い換えれば、今後はそもそも関心を持っていない人々をいかに囲い込むかの段階へ移っていくこととなります。

    MIAUが事実の積上げに基づく論理的な議論展開を図るのであれば、その手の囲込みははかばかしくは進捗しないでしょう。というのも、細かな事実関係を確認したり、議論の論理性にこだわったりするのは、あくまで関心を持っているからこそできることだからです。その手の言論が説得力を発揮するには、まずは関心を持ってもらわなければなりませんが、その手の競争において、

    • 今後のコンテンツ産業の興隆を見据え、中国がネット上での海賊版流通を促進するために著作権法の強化に反対しており、それに加担するのは「反日」「売国」勢力である、といったコピペ
    • 某動画投稿サイトの愛用者が一目惚れしたストリートミュージシャンのため、広告になるかと思いライヴ映像をアップしたところ、悪質なパロディが広がって彼女は傷つき嫌われてしまい、彼女のためにもそのパロディの根絶に立ち向かう、といったD社制作映画、

    なんてものに対抗していくのはなかなかしんどいでしょう。今般のパブリックコメントの数に希望を見出す向きが多いようですが、あれだけの活動を進めているにも関わらず「一万件にも届かない程度のパブコメしか集まらなかった」との切込隊長さんのご指摘はまことに当を得ていると思います。世の中には、数万人規模の集会や署名なんてものはざらにありますが、それが実を結ぶ確率を考えれば、ということです。

    12/21/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work IV

    Filed under: politics, science ::

    さらに参戦ですか・・・。

    Q: UFO論議が注目を浴びていますが、大臣のご所見をお願いします。

    A: 「UFOは、存在しない。」と断定できる根拠がありません。個人的に信じる、信じないという問題も色々あるのでしょうが、そういうような未確認飛行物体、あるいはそれを操る生命体、それが「存在しない。」と断定し得る根拠が無いのであって、防衛省というよりは私個人の話ですが、「存在しない。」と断定し得ない以上、それはいるかもしれない。少なくとも「ない。」と断定するだけの根拠を私は持っていません。ですから、「そういうものも有り得るだろうね。」ということだと私は思います。

    Q: その場合、防衛力のあり方について、何か影響がありますでしょうか。

    A: 「ゴジラ」という映画がありますが、その時に自衛隊が出ますが、「一体何なのだ、この法的根拠は。」という議論があまりされません。映画でも、そこで防衛大臣が何かを決定するだとか、総理大臣が何かを決定するというシーンは無いわけです。ただ、ゴジラがやってきたということになれば、これは普通は災害派遣になるのでしょう。ですから、それが命令による災害派遣か、要請による災害派遣は別にして、これは災害派遣でしょう。要するに天変地異の類ですから、モスラでも同様であろうかと思いますが、これがこのUFO襲来という話になると、これは災害派遣なのかなということになるでしょうね。つまり、その場合は領空侵犯なのかというと「あれは外国の航空機か。」ということになるわけです。普通に考えれば、外国というカテゴリーにはまず入らないでしょう。航空機というからには、翼があって揚力によって飛ぶのが航空機ですから、そうするとUFOが何によって飛んでいるのか、これは色々な議論があるのでしょうけれども、それをそのまま領空侵犯で読めるかというと中々厳しいかもしれない。そうなってくるとこれは飛翔体なのかということになると、どうなるのか。しかし、例えば隕石が降ってきたということと同じに考えられるか、隕石は自然現象ですから、何の意志もなく降ってくるわけですが、UFOの場合には意志なく降ってくるわけではないので、これをどのように法的に評価するのかということもあるのでしょう。そうすると、災害派遣が使えるのか、領空侵犯でもどうもなさそうだ。そうすると防衛出動かということになるのですが、それはわが国に対する急迫不正の武力攻撃のように考えるかというと、そうはならないのでしょう。よくテレビにあるようにUFOが襲来して、色々な攻撃を仕掛けるということになれば、それはそういう評価も成り立つのかもしれませんが、「地球の皆様、仲良くしよう。」とか言って降ってきた時に、それは、わが国に対する急迫不正の武力攻撃でもないし、また何らかの意志が伝達された時に、何を言っているのか、よく分からない。そういう場合に、一体どうやってわが方の意志を伝達するのかということもあって、別に当省としてこういう場合にどうするのかという方針を固めたわけでも何でもないのですが、これも私個人のお話であって、ただ、頭の体操ということはあまり好きではありませんが、色々な可能性というのは考えておくべきものなのでしょう。ある日突然そういうことが起こって、どうするのかということもあまり望ましいことではなくて、これも省としてそれに取り組むとか、そのようなことではありませんが、私自身として、一体どうなるのだろうなということは考えてみたいと思っています。今までも考えて来たし、大臣なる前に何かのテレビの番組で、「どうですか。」と聞かれて、「色々な可能性を考えていかければならないのでしょう。」ということは申し上げましたが、どうすべきか。その時に日本だけ襲来するのかというと、世界あちこちに襲来するのでしょう。その時に国連でそういう議論が行われたかというと、あまり承知をしていないところであって、そういうものが存在しないと断定し得る根拠がない以上は、やはり頭のどこかには置いておくべきではないのかと。ただ、当省として、そういう方針を決定したということではありません。

    石破防衛大臣記者会見(2007/12/20)

    少なくとも法的には、「隕石が降ってきたということと同じに考えられる」こととなります。基本的には人間以外の生命体は非生命体と同様に扱われ(たとえばペットに危害を加えた場合には、器物損壊ということとなります)、地球外生命体といえども「人間以外の生命体」であることには変わりないからです。

    つまりは災害派遣ですが、害獣駆除は災害派遣の一形態であり、実際に猪狩りに出動したこともあるとのこと。仮に地球外生命体が地球に飛来した際には、その危険性が認められれば、害獣として駆除されるというのが法的な整理となるでしょう。

    ただ、火器による射撃は地元のハンターが行い、自衛隊は輸送・通信の支援を行うとの役割分担のようですので、各種作品にてゴジラやガメラに相対する際のように自衛隊が火力の使用に踏み切るには、所要の制度改正が行われなければならないような。その意味では、先の火器使用の限定に関して、「特に必要があると総理大臣(防衛大臣でもいいのですが)が認めた場合は、この限りでない」といった例外規定を加えればよいということとなります>石破大臣。

    12/20/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work III

    Filed under: politics, science ::

    UFOは存在しません−。政府は18日、「地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体」は存在しないと、閣議決定した答弁書で見解を示した。政府がUFOの存在を正式に否定したのは初めて。【「「UFOは存在しません」政府がUFO存在を否定」政治も‐政局ニュース:イザ!より引用】

    (略)

     その意味では、日本政府の「UFOは存在しない」という発言はとてもおかしい。元々の意味のUFO(=正体がまだ確認できていない飛行物体)ならば存在を否定することに意味がないし、マスコミの言うところのUFO(=宇宙人の乗り物)ならば、この存在を頭から否定することは政府がすべきことではない。

     政府なんだから、もう少し正確に「UFO(未確認飛行物体)目撃の報告は数多く受けているが、政府として、そういったものが一部の人たちが言う様に宇宙から飛来した宇宙人の乗り物だとは認識していないし、さらに調査が必要と思わせるだけの信頼度の高い情報も持っていない」と発言すべきだと思うんだがどうだろう。

    「日本政府の「UFOは存在しません」発言にいちゃもんをつけてみる」(@Life is beautiful12/18付)

    確かに政府が「存在しない」とした旨を報ずるメディアは数多くありますが、一昨日引用した朝日の報道では、「地球外から飛来してきたと思われるUFOの存在を確認していない」とする答弁書を決定とされています。また、政府は18日午前の閣議で、地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体(UFO)について「存在を確認していない」とする答弁書を決定したとの東京新聞の報道もあります。

    未だ参議院サイトでは質問主意書・答弁書の公開がなされていないので、実際にどのような文言が用いられているのか現時点では不明ですが、政府が「確認していない」としたのに「存在しない」としたかのように誤報する可能性と、逆に政府が「存在しない」としたのに「確認していない」としたかのように誤報する可能性とでは、後者の方が大きいのではないでしょうか?

    政府への批判としては、もう少し正確に「『存在していない』との報道が事実であれば、『UFO(未確認飛行物体)目撃の報告は数多く受けているが、政府として、そういったものが一部の人たちが言う様に宇宙から飛来した宇宙人の乗り物だとは認識していないし、さらに調査が必要と思わせるだけの信頼度の高い情報も持っていない』と発言すべきだと思うんだがどうだろう」としていただきさえすれば、webmasterとしては言うことはないのですけれども。

    12/19/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work II

    Filed under: politics, science ::

    昨日取り上げた町村官房長官発言について、branchさんが次のように評していらっしゃいます。

     それにしてもこの官房長官、ノリノリである。 …というか、官房長官のこの対応振りは、ネタも相俟って多くのメディアで報道されて国民に親近感を与える効果が期待され、政治的にはとてもうまい。御本人の素朴な考えなのか計算の上なのかはたまた秘書官が振り付けたのかは知るべくもないが、大いに感心。

    続・航海日誌(12/19付)

    UFOというネタそのものはおっしゃるような見方も可能かもしれませんが、やはりナスカの地上絵を引き合いに出したことについては、webmasterはまったく感心できないのです。でまあ(事務)秘書官が振り付けたならばその手のネタは避けるでしょうから、ご本人のお考えなのではないかとwebmasterは思うのですが、いかがでしょう?

    12/18/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work

    Filed under: politics, science ::

     「個人的には絶対いると思う」。UFO(未確認飛行物体)は未確認という政府の公式見解に、内閣のスポークスマンである町村官房長官が18日、「異議」を唱えた。

     政府は同日の閣議で、民主党の山根隆治参院議員の質問主意書に対し、「地球外から飛来してきたと思われるUFOの存在を確認していない」とする答弁書を決定。文部科学省によると、「UFOに関する答弁書は初めて」という。

     ところが、町村氏は記者会見で「政府の公式答弁は極めて紋切り型。私は個人的にはこういうものは絶対いると思っている」と反論。「そうじゃないと、ナスカ(南米ペルー)のああいうの(地上絵)、説明できないでしょ」と述べた。

    朝日「町村長官「UFO絶対いる」 政府公式見解に「異議」」

    こんな質問主意書を担当させられた方々には心より同情申し上げます。ちなみに、質問主意書への答弁としては初出のようですが、国会答弁としては既に存在しています‐しかも、同じ山根議員への質問によって。

    ○山根隆治君 雲をつかむような話のついでといってはなんですけれども、UFOの問題について少し聞いてみたいと思います。

     国会では今までUFOを取り上げられたことがないということのようでありますけれども、未確認の飛行物体ということでございますけれども、大臣はUFOを見たことございますか。

    ○国務大臣(麻生太郎君) おふくろは見たといってえらい興奮して帰ってきたのがありますけれども、残念ながら私自身は見たことはありません。

    ○山根隆治君 私もよく深夜散歩することが多いものですから、そのたびに空見て、深夜というのは、犬の散歩というのは私の日課でございますので、何があっても散歩しなくてはいけないと、犬を連れての散歩ですね。何かちょっと、事件がちょっとあったようですから、それとの絡みで思われては困りますが。空を見て、UFOを見てみたいものだなというふうにいつも思っているんです。一度も私、見たことがないんです。

     ただ、これ名古屋大学の福井先生の著書の中で引っ張ってきましたけれども、銀河系全体では二千億個の星があって、さらに宇宙全体では二千億個もの星から成る銀河が一千億個以上もある。もう天文学って、正にこれ天文学的な数字の星があるわけでございまして、私は個人的には、これだけの膨大な、頭の中で整理もできないぐらいの数の星がある中で、知的な生物がこの地球上に人間だけだというふうに思うことが私は不自然なように私自身は思っているんです。

     そういうことからすると、UFOが度々もう飛来、世界じゅうに飛来している、しょっちゅうそれはテレビで、先日も私、一週間ほど前テレビでまた見ましたけれども、これについて全く無関心でいるというわけにはいかない。それはやはり政治家として国民の生命、財産というものをどう守るかということもありますし、防衛上の問題もある。

     アメリカも、やはり一九四八年から相当期間、実際にやっぱり調査をアメリカの空軍でしてきたというのがこれ明らかになっている話です。その調査結果によると、相当の、何万という事例を検証していったけれども、全部否定し切れるものではない、相当数のものを認めざるを得ない、飛行物体があるということを否定し切れないという報告でした。最初のうちはそれがやはりもうUFOなんだということをかなり積極的にというか、肯定的にとらえて報告をしていましたけれども、後半の部分になってくると一気に否定的な報告になってきて、それ今はもうその組織は解散をいたしているわけでございます。

     私は、なぜこういう唐突なお話をさせていただくかということについては、今お話ししましたように、国家や人類のやっぱり防衛上の問題ということで無関心であってはいけないと。これを真摯にやっぱり受け止めて、情報の収集やそれこそ解析やということを国家としても、やはりアメリカもほかのヨーロッパの諸国も行われていると。今はそれを否定する報道が多いわけでありますけれども、事実上アメリカの空軍はそういうのを行ってきたということが明らかでありますけれども、日本は国家として、アメリカからそうした情報を得たり、あるいは意見を交換したりというふうなことがあるのかどうか、その辺についてお尋ねをしておきます。

    ○国務大臣(麻生太郎君) これは防衛庁じゃないかと思いますが、今、山根先生お話のありましたのは、たしか一番よく言われたのは、人工衛星が、アメリカの人工衛星が昭和四十何年に上がりましたときに、あの衛星の後ろにUFOが三台付いて一緒に回っていたというのが結構あの当時話題になった。私のUFOに関するアメリカの新聞の記事でいくとそれが一番最初の印象なんですけれども、これは結構真剣に考えているんだなと、今からかれこれ四十年前の話で恐縮ですけれども、そう思った記憶がありますけれども。

     それにいたしましても、おっしゃるように百五十億光年前、百五十億光年かなたに最初の宇宙ができてと言われているんですが、膨大な数の星の中に地球にしかこういった我々みたいなのがおらないということはちょっと幾ら何でも想像力がなさ過ぎるんで、似たようなのが一杯いたっておかしくはないだろうなと私自身もそれはそう思っております。そこが更に進んだ技術を持っていて、何となく時々、この地球にいるのが今後どういう具合なことになっておれたちに危害を与える可能性について向こうがこっちを調査している可能性も、それは否定できないんだと思いますね。

     私は、この種の話は多分いろいろ、サイエンスフィクションの世界に限らず、いろいろ考えられるところだとは思いますけれども、今総務省としてこの種のことに関してしかるべき手を打っておるかと言われれば、私どもとして特にUFOに関して調べているということではないのが率直なところです。

     これは国防上というのであれば、多分これは防衛庁ということになるんだと思いますけれども、防衛庁で、その種のUFOに関するほど想像力の高いのが防衛庁にいるなんというのは余り聞いたことありませんし、ちょっと守屋の顔からもなかなか想像できないなと思わないでもありませんけれども、いずれにいたしましても、こういった話というのは常にいろんな意味で、ある日突然に来る可能性というのは常に考えておくべき問題だとは存じます。

    参議院総務委員会(2005年3月10日)

    この3月10日に一週間ほど先立って山根議員が視聴したというテレビ番組が何か判明すれば、山根議員がどの程度きちんとした議論をされているかがわかるでしょうけれども、下記のとおり、基本的にはいわゆるビリーバーな人のようです。2年9ヶ月余りの間に変わってきている可能性はありますが・・・。

    • 「銀河系全体では二千億個の星があって、さらに宇宙全体では二千億個もの星から成る銀河が一千億個以上もある。(略)これだけの膨大な、頭の中で整理もできないぐらいの数の星がある中で、知的な生物がこの地球上に人間だけだというふうに思うことが私は不自然なように私自身は思っている」というのは、ドレイク方程式のようなものを念頭に置いているのでしょうけれども、人類以外の知的生命体の存在の可能性を肯定することと、地球外生命体の宇宙船としてのUFOの存在を肯定することはイコールではありません。ドレイク方程式を議論の前提としつつ、かかるUFOの存在可能性を否定的に論ずる議論は当然成立するのです。
    • 「アメリカも、やはり一九四八年から相当期間、実際にやっぱり調査をアメリカの空軍でしてきたというのがこれ明らかになっている話です。その調査結果によると、相当の、何万という事例を検証していったけれども、全部否定し切れるものではない、相当数のものを認めざるを得ない、飛行物体があるということを否定し切れないという報告でした」というのはプロジェクト・ブルーブック等の一連のプロジェクトを指すのでしょうけれど、Wikipedia英語版によればFrom 1947 to 1969, the Air Force investigated Unidentified Flying Objects under Project Blue Book. The project, headquartered at Wright-Patterson Air Force Base, Ohio, was terminated December 17, 1969. Of a total of 12,618 sightings reported to Project Blue Book, 701 remained “unidentified.”(略)There has been no evidence indicating the sightings categorized as “unidentified” are extraterrestrial vehicles.とのことで、正体が「未確認」のまま終わったものがあると認める一方で、地球外生命体の宇宙船である可能性を示す証拠はないと言い切っています。これは明らかにバイアスがかった参照でしょう。

    他方で町村官房長官も、地球外生命体の宇宙船としてのUFOを個人的に信じるのは思想・信条の自由の範疇ですが、その材料としてナスカの地上絵を引き合いに出すようでは。下記のとおり、地球外生命体の存在を仮定しなくても、説明は可能ですから。

    The alien theory is proposed mainly because some people find it difficult to believe that a race of “primitive Indians” could have had the intelligence to conceive of such a project, much less the technology to bring the concept to fruition. The evidence points elsewhere, however. The Aztecs, the Toltecs, the Inca, the Maya, etc., are proof enough that the Nazca did not need extraterrestrial help to create their art gallery in the desert.

    In any case, one does not need a very sophisticated technology to create large figures, geometrical shapes, and straight lines, as has been shown by the creators of so-called crop circles. The Nazca probably used grids for their giant geoglyphs, as their weavers did for their elaborate designs and patterns. The most difficult part of the project would have been moving all the stones and earth to reveal the lighter subsoil. There really is nothing mysterious about how the Nazca created their lines and figures.

    Nazca lines - the Skeptic’s Dictionary

    12/17/2007 (11:59 pm)

    英語と日本語の情報伝達効率比較

    Filed under: science ::

    街中はクリスマスムードでいっぱい。今日も「赤鼻のトナカイ」がどこかで流れていて、ふと、その英語と日本語の歌詞の情報量の差に呆然。

    日本語で

    ♪真っ赤なお鼻の♪

    と歌う間に英語はこれだけ入ってます:

    ♪Rudolf, the red-nosed reindeer♪

    つまり、「真っ赤なお鼻のトナカイさんのルドルフが」。日本語に比べて、「トナカイ」と「ルドルフ」という2アイテム多い情報伝達がなされるわけ。

    (略)

    この間日本で、日本のシティバンクのカスタマーサポートに電話したら、録音メッセージがナビゲートするタイプだった。しかし、アメリカで日頃使っているものに比べて、あまりに一つ一つの選択肢を言われている時間が長いので、イライラして途中でギブアップ。例えば、

    「日本語をご希望の方は、1、を押してください」

    というのに多分4秒強かかると思われ。同じことが英語の録音音声だと

    「If you would like to proceed in English, please press one」

    という感じ。長そうだが、多分3秒弱くらい。30%違うのね。これに耐えられず。(ま、そもそも、録音メッセージナビゲート自体が、言語に関わらずいらだつのですが。)

    もちろん、同じものをさしていても、英語より日本語の方が短い時間で言える単語もある。あるのではあるが、一般的には、ある程度の長さの情報を口頭で伝えようと思ったら、少なくとも日本語の方が3割方長めにかかる気がする。(これ、きっとどこかにきちんとした調査・分析をされてる方がいると思うんですが、ご存知の方がいたら教えてください。)

    日本語は全ての音が「子音+母音」で成立しているが、英語では、子音が母音と独立して存在、一つの母音に、様々なバリエーションの複数の子音をくっつけられる。一方で、一つの母音を発音している時間は日本語と英語でそれほど変わらないので、単位時間あたりの情報量に差が出ると、そういうことだと推測してるんですがどうでしょうね。2進法と3進法、みたいな差でしょうか。

    「赤鼻のトナカイに見る日本語と英語の単位時間あたり情報量」(@On Off and Beyond12/6付)

    さて、この観察が実際に正しいのかどうか調べてみました。前提として、情報量ということでエントロピーがどうなっているかを見ると、英語は1.34 bits/letter、日本語は2.71 bits/letterとのことですので、これを時間当たりに変換すれば大まかな傾向はつかめるでしょう。

    まず1分あたりどの程度話すかを調べてみると、英語は150 words per minuteがaverage日本語は250〜300字/分が聞きやすい・話しやすい目安とのこと。しかし両者は単位が異なるので、このままでは比較できません。これらの単位をあわせるためには、英語についてはword当たりの文字数を調べ、日本語については漢字が含まれている分を調整する必要があります。

    英語の文字数については、中学1年生用の検定教科書で3.86字、中学3年生用の検定教科書で4.11字とのことなので、一般的には中学3年生の水準からさらに中学生で学ぶ分だけ上昇すると仮定すれば、4.11+(4.11−3.86)=4.36ということとなります。したがって、1分当たりに話される英語の情報量は、

    • 1.34×150×4.36=876.36 bits

    ということになります。

    他方、日本語の漢字については、ぐぐっていろいろなページを見る限り、概して3〜4割程度含むものが推奨されているようですので、1/3の漢字を含み、それが平均して1.5字のかなに相当するとすれば、同じく1分当たりの情報量は

    • 2.71×250〜300×(6/7)=580.7〜696.9 bits

    ということになり、確かに英語の方が情報量が多いと推測されます。580.7 bits per minuteだとすると英語の66.3%、696 bits per minuteだとすると英語の79.5%ですから、「日本語の方が3割方長めにかかる気がする」というのはなかなか当を得たご指摘であるととりあえずは考えることが可能でしょう。

    #上記の1分当たりの計数のリンク先によると、英語のfast talkersは180 words per minute、日本語は最大で400字/分とのことなので、きわめて早口の場合は英語の1,051.632 bitsに対して日本語の929.1 bitsと、多少は差は縮まるようです。

    他方で、どのような言語であっても、情報伝達効率には差がないことが自然であるようにwebmasterには思われます。というのも、英語・日本語に限らず、いわゆる圧縮の余地は多分にあり、ある程度の冗長性があってこそエラーやノイズへの強度や脳の言語処理能力とのバランスといった関係で最適だという水準に落ち着いていると考えられるからです。言い換えれば、こうした強度やバランス上適切な水準を超えて冗長性があるならば、さまざまな圧縮が慣用として行われ、結果としてより伝達効率の高い言語体系に生まれ変わってしまうはずです。

    このwebmasterの見立てが正しいのであれば、上記のような聴覚を介した情報伝達において言語間に差があるのなら、その他の手段による情報伝達では逆の関係が成立し、言語による情報伝達効率は、各手段の使用頻度に応じた加重平均値ではほぼ同じものとなるとの推測が成立します。分かりやすい例としては、聴覚を介した伝達において日本語が劣るのであれば、視覚を介した情報伝達では日本語が勝るはずでしょう。これは、表意文字である漢字を用いることからも、一見正しそうな仮説といえるのではないでしょうか。

    では、実際に試算してみましょう。黙読については、英語では250〜300 words per minuteが平均的なスピードのようですが、日本語では500〜700字といったところのようです。上記の式を漢字補正を除いて当てはめてみますと、

    英語

    1.34×250〜300×4.36=1,460.6〜1,752.72 bits

    日本語

    2.71×500〜700=1,355〜1,897 bits

    となり、甲乙つけがたいように推測されます。となれば、前述の加重平均値では、日本語は英語よりも情報伝達効率が低いものとなるでしょう。webmasterは既述のように言語間で大差はないものと考えていますので、webmasterの仮説が誤りであるか、それとも上記の各推計に誤りがあるのか、いずれかということとなります。

    ここからは完全なあてずっぽうですが、疑うべきは日本語のエントロピー2.71ではないでしょうか。もちろん、数値自体を疑うものではありません。ただ、原論文を見ていないので勝手な憶測ではあるものの、おそらくは書き言葉のエントロピーであり、話し言葉のそれではない可能性はあります。仮に英語の書き言葉・話し言葉の差よりも日本語のそれの方が大きく、書き言葉・話し言葉の双方に同じエントロピー値を当てはめて推計することが不適当であるならば、話し言葉においても英語と日本語の単位時間当たり情報伝達量は等しい、ということもあり得ます。

    #エントロピーの絶対値が問題というより、書き言葉と話し言葉のそれぞれのエントロピーの比の問題、というのが正確な表現でしょう。英語のその比が1:1である場合は同じことですが。

    直感的には、たとえば言文一致が試みられた歴史など、日本語の方が英語よりも書き言葉と話し言葉との乖離が大きく、書き言葉のエントロピーをそのまま当てはめた推計では他言語よりも相対的に低い推計値が出てしまうような気がします‐渡辺千賀さんが冒頭の引用で触れられた事例は、赤鼻のトナカイは翻訳(それも歌詞という、音節や韻等の制約が厳しい対象のそれ)に伴う問題であり、電話メッセージは書き言葉を読むことと話し言葉を話すことの違いに起因する問題と整理するのが、この直感とは整合的です。さて、どのように確認すればよいのかといえば、どなたか専門家の方にお願いしたいなぁ、ということになってしまうのですが。

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